というわけで(意味不明)、猫のミーコが登場するミステリがあったかどうか調査して おります。ホラーなら小池真理子「首」(『薔薇船』所収)、坂東真砂子『蛇鏡』が確 認されているのですが(あまりいい役じゃないけど)。 詳報は次々回あたりの日記でお伝えできると思います。
唐突ですが、このほど「ムー」創刊20周年を記念して「ムー伝奇ノベル大賞」 が創設されることになりました。 母胎は「ムー」ですが、純然たる小説賞です。選考委員は、菊地秀行、皆川博子、 夢枕獏(50音順)という現代「伝奇」文学を代表する三大家。学研さん、今回は 気合いが入ってます(笑)。 伝奇ロマン、伝奇バイオレンス、伝奇時代小説といった既成の「伝奇」イメージ にとらわれない、斬新な着想のエンターテインメントを求めています。 要するにホラーもファンタジーもSFも冒険アクションもサスペンスも何でもあ り! な「伝奇」本来の精神に回帰せよ、ってことですか(詳しくは「ムー」11 月号掲載の選考委員による鼎談中で、小生が司会役の立場でコメントしております ので御参照ください)。 応募規定その他の詳細は、10月9日発売の「ムー」11月号に掲載されます。 個人的には、『狗神』とか『水霊 ミズチ』みたいに活きの良い本格伝奇ホラー が輩出することを、秘かに期待しているのですが(笑)。
八尾の猫様 まだ夏休みですか! いいですのう。とか言って私も、会社員の友人とかには「あんた毎日夏休 みでしょ」と罵倒されてますが。 「失楽園」、いいですよねえ。おっこちる人(サタンでしたか)がかっこよくてシビれました。 「眠り姫」は別名義で発表されたものだそうですが、今やアン・ライスの代表作扱いかもしれ ませんね。日本では。でも私、あの作品にはあんまりエッチさを感じないのですが……。 中島様 そういえばキティちゃんはよくネズミ連れてますね。スヌーピーとウッドストックのような ものだろうと思っていたのですが、実はあれは「非常食」なのかもしれません。可愛い顔して 恐ろしい畜生です。 倉阪様 おお、何か事情が。失礼いたしました。もう詮索いたしません。でもそう言われると余計気に なるんです。 笹川様 失礼しました! 「吉晴」さんだったのですね。私、なぜかずっと勘違いしてました。日記に も「吉春」って書いてたよー。えーなんでー?(って笹川さんに聞いてもしょうがない) 本当 に、申し訳ございませんでした。 ヴィンセント・プライスとティモシー・ダルトンとキアヌ・リーヴス、そこに田村潔司も入れ てください。ほーら、ますますわけがわかんねえ。共通点、「ヴィンセント・プライス以外は頭 が悪そう」と書こうと思ったら、中島様の書き込みが……うう、頭悪い男が好きらしいです(涙)。
ヴィンセント・プライスと言いますと、最近文庫化された瀬戸川猛資氏の『夢 想の研究』に、 >> 次ページの写真をじっくりと眺めていただくことにしよう。これらはプライス主 >> 演映画の数葉を任意に選び出したものである。まず感じられるのは、 >> >> 1 すべて見得を切っている >> 2 大げさでクサイ >> 3 バカみたいでもある >> >> といったことではないだろうか。その感じはすべて正しい。この役者はどんな場 >> 面でもいつもこうなのである。 と紹介されているのを読んで、大爆笑してしまいました。隣でテレビを見て いた家内に「何をそんなに笑ってるの?」と訊かれてたんですが、実際に映画 を見ていない人には説明しようがないですねえ。
笹川さんが足を向けて寝られない(笑)牧野修さんの新刊「リアルヘヴンへようこそ」 (広済堂出版・552円)が届きました。さっそく読みましたが、これから並ぶ本なの で「必読」とのみ記しておきます。また読書会になるかも。
高瀬様 高瀬さんまで僕を責めるなんて〜。それどころか名前すら覚えてくれてない……。僕の名前は「吉 春」ではありません。グッスン。 ところで、ヴィンセント・プライスとティモシー・ダルトンとキアヌ・リーヴスがどう繋がるんだ か分からないと、同居人が納得いかないようです。 ちなみに、ロフトのイヴェントの当日に観ていた『怒りの凶弾』というTVムーヴィには、プライ スがアラブ人考古学者に扮した黒幕スパイの役で登場し、紳士的だが冷酷な悪役を気持ち良さそう に演じておりました。しかも主人公を助けようとするが気働きのしないスパイがドナルド・プリー ザンスで、ベッドの下から目玉ひん剥いた絞殺体になって発見されたり、腹の読めないトルコ情報 部の大佐がジョゼフ・ワイズマンだったりと、なかなか地味に豪華です。つまらないけど。 また、これは『マペットショー』の映像ではなくて絵本で見たのですが、ゴシックタッチで現れた プライスが夜中の鐘と共に苦しみ出し、マペットが「ああ、何と恐ろしい! 旦那様は、旦那様 は、12時の鐘と共に世にも恐ろしい姿に変身するのだ!」と言うや、花を咥えたガイ・ロンバルド に変わるというネタがありました。ぜひ映像で見てみたい、馬鹿な絵でした。 「勘違いしている畜生」では、何といっても『ジャングル大帝』のジャングルレストランですね。 動物たち同士の共食い(ではないんですけど)をやめさせるため、レストランを開いたレオが肉食 動物のテーブルに「へい、お肉お待ち!」って何の肉だよ?
ヴィンセント・プライスの声質に最も合っているのは大仰なセリフ回しの「怪人ドクター ・ファイブスの復活」ではないでしょうか? 「アッシャー家の崩壊」はあまり蒲柳の質 に見えなかったな(笑)。そう言えば、最晩年に「ジャンク」系のドキュメンタリー・ホ ラーのナレーターをやっていて、ちょっと悲しかったです。 高瀬様、皆様 えー、「緑の幻影」の仕掛けについてはですね、ちょいとデリケートな事情がありまして (汗)、できればあまり話題にしていただきたくなかったりするのですよ。すいません。
一度人間相手に言ってみたいような……友達がいなくなりますね。 >高瀬様 キティちゃんって絵本ではネズミを抱いて歩いていることがあるんですが、 あれはやっぱりおやつなのかなあ。 何年か前、NHK教育の小学校向け道徳教材人形劇で、ブタの女の子がペッ トの金魚を死なせてしまって……というお話をやっていたんですが、「ブタの くせに金魚なんか飼おうとするからだ!」と思ってしまいました。私、人間失 格でしょうか?
なんと云っても『忍者と悪女』ですね。 (この邦題もすごい!! たしかに悪女は出てくるけど、何故に〈忍者〉?) 原作はいちおうポーの「大鴉」のはずなのに、最初の3分をのぞくと まったくポーのロマンティックな詩とは関係なくて、要は 善い魔法使い(プライス)と悪い魔法使い(ボリス・カーロフ!)と 駄目な魔法使い(ピーター・ローレ!!)、三つどもえの魔術合戦。 指先から怪光線。空飛ぶ短剣。 三大怪奇スターの大仰な悪ノリ演技がぞんぶんに楽しめますです。
すみません、改行しそこねました。 あー、もうすぐ学校が始まります。やだなあ。今年の夏休みのホラー・幻想小説の収穫と言えば、 サド「悪徳の栄え」、ミルトン「失楽園」、ゲーテ「ファウスト」 フランク・デ・フェリータ「カリブの悪夢」「オードリー・ローズ」 O・R・メリング「妖精王の月」 アン・ライス「魔女の刻」 ピーター・ジェイムズ「ポゼッション」 フランス世紀末文学叢書で面白かったのがミルボー「責め苦の庭」、アンリ・ド・レニエ「碧玉の杖」 それからもっとも怖かったのが現代百物語「耳袋」などでしょうか。 東さん、石堂さんの「幻想文学1500」にはお世話になりました。ダンテの「神曲」はあまり面白くなかったですが、「失楽園」は読んでて楽しかったですね。読めなくて悔しかったのが ジェイムズ「ドリーマー」(他に翻訳出てるのかなあ)、デ・フェリータ「十月祭」(どこにいけ ば手に入るんだ)でした。それにしてもアン・ライスは「魔女の刻」シリーズがベストだと思うの に、最近「眠り姫」を即座に連想する人が多くなってしまった…。 高瀬様 キティちゃん劇場みたいなのをやっていました。キティちゃん主演で、世界の名作をやってるら しく、私が見たときは「ハイジ」でした。キティちゃんのくせに、ヤギを飼っている! しかも、 クララも猫なんですが、クララのお父さんが犬なんです! どういうことだ!! なんでやねん!それにしても私は「勘違いしている畜生」と言いまわしに打ちのめされました 凄いです。 私は「仕掛け」はどこにあるか分かりませんでしたが、裏の表紙の見開きの「…でもロングセラーだ」という言葉に愛嬌を覚えました。
フク様 はじめまして。MYSCONのページ、拝見いたしました。今ひとつ趣旨がわかってない私 ですが(^_^;)機会がありましたらお邪魔させていただきます。でもミステリ読んでないから なあ……。 >インターネット上に彷徨う女性の中でも無類の美しさを誇る(と皆さんが仰る)高瀬美恵さま、 ほほほ、皆さん正直で困ります。 中島様 勘違いしている畜生といえば! 前にテレビを見ていたら、キティちゃん劇場みたいなのを やっていました。キティちゃん主演で、世界の名作をやってるらしく、私が見たときは「ハイジ」 でした。キティちゃんのくせに、ヤギを飼っている! しかも、クララも猫なんですが、クララ のお父さんが犬なんです! どういうことだ!! 比呂様 ヴィンセント・プライス、顔に見とれていて、声には注意を払っておりませんでした。しま った。「スリラー」の語り……どういうのでしたっけ。あれは確か、マイケルがガールフレン ドとデートしてて、月が出てきて変身しちゃうというビデオだったような気が……(あやふや)。 当時は、あの変身シーンの特撮がリアルだと話題になりましたね。 角銅様 えっ、ウォルト・ディズニーってあんなにかっこいいんですか? 確か、ディズニーは悪の帝 王だとかいう本が出てましたっけ。読もう(不純な動機)。 倉阪様 「緑の幻影」、ひっくり返してますが仕掛けがわかりません。「帯の裏に何か!?」「しおりの 紐に小さい字が書いてあったりして!?」とか思ったんですが全部はずれ。ま、まさか表2・表3 の緑色の紙をそっと剥がすと、裏にびっしり呪文が! きょーてー!
また本題とはずれ気味なところですみません。 高瀬さん やっぱそーですよねー(⌒_⌒) ところでタイトルのヴィンセント・プライスですが、 顔はウォルト・ディズニーに似てると一部では評判です。 比呂様 えーと、確かニフティの方ではレスをつけていただいたのに、 そのままにして申し訳ありませんでした。 「スリラー」の件はその会も終わろうかという頃に思いだしたのですが、 高瀬さんに説明しようにも「襲名」実演の方に話題がいってしまっていたので、 口にし損ねたのでありました。 ヴィンセント・プライスのマイベストワンムービーは、ピーター・カッシングと共演の 「マッドハウス」ですね、確かそんな題。何しろラスト、プライスが、自分でメイクして カッシングになっていっちゃうところが、他に類を見ない名場面。 誰が考えたんだこんな事!?ってかんじで好きです。
すんません。1行改行をミスりました、、、、。読みにくいですがご容赦ください。 ホント、ドジが多いです、、、比呂
久しぶりにスタージョンなど読み返している比呂です。 >中島晶也 さまへ 菊地氏をジャンルミックスとしてのホラーと書きましたのは、なんとしても 菊地氏をホラーの中においておくにはここしかないかな、というというつもりです。 ジャンルミックス=ホラーというつもりではなかったのですが、書き方まずいですね。 (最近本当に文章がかけない、、、悩んでます(;_;))モダンホラーの中なら、ジャンル ミックスしたホラー作品として入れられる、という言い方になるのでしょうか、、、。 >>一瞬、意識が遠のきました(笑)。いや、ちゃんと筋は通っているんですが。 >> 予備知識なしで読んでしまい、パソコンの前で泡を吹いて倒れているギャラリー >> がいるかも。 あたしは中島さんのこの台詞で吹き出しました(笑)。うーん、そうかー、とか 言いながら読んでいたあたしは何なのだろうと(笑) でも、今回の再分類で、改めて気にしている部分がちらっと見えてきたかも。 (途中から参加だったので、みなさんの立脚点がちょっと掴めていなかったのも本当なの。だから、議論の前提が凄く気になっていたのですよ) >高瀬美恵さまへ はじめまして。ヨロシクです。 さて、ヴィンセント・プライスは外見もさることながら、あのねっとりとした しゃべりもいいですよー。一般にはマイケル・ジャクソンの「スリラー」の 語りが一番しられているかもしれません。昔はよくマネしました(^^;)。 あと、ラブクラフトの顔については、やっぱり”嶋田久作”が一番近い気が します。嶋田さんの芝居を初めて見に行ったとき、驚愕しましたもん。 「ラブクラフトそのものやん、あのひと(笑)」。 (東京グランギニョルの「ガラチァ」だったかな) まさかその後、帝都物語の加藤役に抜擢されるなんて思いもしなかったです(^^;)。 >フクさまへ >>あと初期三部作の作家イメージは秀逸です。 ですよね。これも読んでいた当時全然気が付かなかった部分で、自分がついつい キャラクター小説として読んでるだけなのが痛感されてしまいました。 改めて読み返す楽しみができた気がします。
中島様 うう、わかりやすくしたつもりなのに(笑)。 左から順に「純文学−エンタテインメント」という座標を据えると(多少は)わかりやすい のではなかろうかと思います(>ギャラリーの皆様)。 フク様 さらに二冊渡してあるので今後も続くかも。仕掛けは大したものではありません。
>八尾の猫様 ディズニーのグーフィとプルートはどっちも犬なのに、片方は服を着て二本 足で歩いていて、もう一方は何とミッキー・マウスのペット! ミッフィーや キティちゃんも畜生のくせして平気な顔して動物園に行くし、擬人化レベルの 混乱したアニメを見ていると、頭が割れそうになります。頭が割れそうと言え ば── >倉阪様 >> で、それに付随して、従来のモダンホラーの4分類「モダン・ホラー、モダン・モダ >> ンホラー、本格モダンホラー、モダンホラー」を「モダン・ホラー、モダン・モダン >> ホラー、モダンホラー」の3分類に改めます。多分にジャンル経営論含みであった4 >> 番目のモダンホラーをカット、3番目の「本格モダンホラー」を「モダンホラー」に >> 改めました(これでもわかりにくいよな・・・)。 一瞬、意識が遠のきました(笑)。いや、ちゃんと筋は通っているんですが。 予備知識なしで読んでしまい、パソコンの前で泡を吹いて倒れているギャラリー がいるかも。
東さま 『京極夏彦の世界』、東さんの評論「匣と陰陽師」のみ読了しました。私自身、最近の京極論 評をあまりきちんと踏んでおらず、的がずれるかもしれない点、御容赦下さい。 実はそれ程目新しくない安倍晴明及び、彼をテーマにした種々の創作世界(『陰陽師』とか) と京極世界の比較を、「箱」というアイテムに注目しつつ少しずつ切り開いてみせる手法に斬 新さを感じました。特に蘆屋道満をいきなり持ち出すあたり東さんならでは、でしょう。実は 陰陽道そのものは詳しくないので、「ふむふむ」と言いながら単に拝読していたというのが正 しいです(笑)あと初期三部作の作家イメージは秀逸です。特に百閧ニ乱歩。うん。 ただ、箱のイメージ論で通しで語るなら「ハコ」を京極氏が「匣」「箱」「筥」などをどのよ うに使い分けているのか、辺りも触れていただきたかったように思います。本論とはズレちゃ いますが、無条件に「箱」で全ての事例を同一視して良いのか?という点にちょっと引っかか りがありましたので。 花田清輝――初耳でした。勉強しなければ、です。 全体を通じては京極作品を踏まえた上での高次の論というか主張がハッキリと見えましたので、 満足出来る内容でした。 倉阪さま 『緑の幻影』読了しました。このところの刊行ペースは「隔月刊」といった趣ですね。学生諸 君はさぞかし辛かろう(笑)感想そのものはまたゆっくり書きます。後半の二転三転四転五転 ……していって現実と異界の境界がどんどんぼやけていくあたりが好みでした。個人的なツボ は「新青年揃い一千万円」ですが(笑)ところで、あとがきにある「見えないところにも仕掛 けがあります」って何なのでしょう? 笹川さま お手数をおかけしました。と、いうことですので。(私信) 高瀬さま インターネット上に彷徨う女性の中でも無類の美しさを誇る(と皆さんが仰る)高瀬美恵さま、 是非ともMYSCONに来て下さい!!(染みついた営業体質……) イデア論の御邪魔をしてすみませんです。
笹川様、中島様 なるほど、よくわかりました。小池真理子の前史をたどると「日本のモダンホラーの 草分けは岡本綺堂」という話になるのではないかと思ったもので疑義を呈したのです が、切り口が違うんですね。 で、それに付随して、従来のモダンホラーの4分類「モダン・ホラー、モダン・モダ ンホラー、本格モダンホラー、モダンホラー」を「モダン・ホラー、モダン・モダン ホラー、モダンホラー」の3分類に改めます。多分にジャンル経営論含みであった4 番目のモダンホラーをカット、3番目の「本格モダンホラー」を「モダンホラー」に 改めました(これでもわかりにくいよな・・・)。 高瀬様 えー、あれは「ブスホラー」の第一人者という意味でして、決してT先生にも引けは とっておりませぬ(と、フォローする私)。 一人ノルウェイの森・・・部数の話はやめよう。
笹川様 角銅さんの書き込みに、訂正する箇所は何もございません。笹川さんは大阪に足を向け て寝てはいけないのではないかと。私は帰りの電車の中で怪生物に襲われまくりましたが、 操は守りました。 菊地秀行氏のロフトプラスワン・トークライブ&上映会で、ラブクラフト映像化作品を 初めて見ました。やーんヴィンセント・プライスってかっこいいですー。顔が長くて頬が こけてて目つきが凶悪な人に弱いです、私。 アメリカの学生が作ったという自主制作の「アウトサイダー」が気に入りました。よく できてるんですけど、やっぱりチープで、舞踏会のシーンがどこかの教室だったりして、 可愛いかった。 ところで。遅ればせながらただいま『緑の幻影』を読み始めたところです。「一人ノ ルウェイの森」みたいな装丁がすてきです。 作中、「ラブクラフトは夢野久作とカフカを合わせたような風貌で」とありますが、 くだんのロフト上映会においてラブクラフトの写真が大写しになった瞬間、菊地氏は 「嶋田久作に似てますね」とおっしゃってました。ラブクラフトって、いったい。 ……しょうもない書き込みで申し訳ございません。イデア論は楽しく拝見させていた だいております。退散。
まず、モダンホラー。何度も繰り返しますが(笑)、モダンホラー=ジャン ルミックスなる説は、こぼれ落ちる作家がいっぱいいるので検証不足。私的に は却下です。 >> 僕としては<モダンホラー>を怪奇小説を現代的に再生する試みとして捉えているので、 こちらが正解でしょう。これならすべてのモダンホラー作家がカバーできま すから。その中の1つの方向性としてジャンルミックスがあるだけなんです。 だから、文字通りモダンのホラーであって、新しいジャンルとかジャンルを超 えたムーブメントとかではないし、ホラーのサブ・ジャンルとしても認めがた いです。 で、伝奇バイオレンス。菊地氏の場合、安定して読者が獲得可能な大藪春彦 に始まるバイオレンス小説の枠を借りて怪奇小説をやろうとしていたのではな いかと思うんです。そういう意味では、これもまた怪奇小説を現代的に再生す る試みで、あちらのモダンホラーと志は同じなんですね。 ところが、実際できあがった作品は、純粋なホラーとは一味違う楽しみを開 拓してしまっていたんです。無数のエピゴーネンを輩出し、かなり明確に類型 を規定できる伝奇バイオレンスは、実体のないモダンホラーと違って、サブ・ ジャンルと呼ぶに足ります。 >> ミステリならハードボイルド(ちょっと違うかな? >> 名探偵にも配合されているかも。難しいです)、SFならスペースオペラ、ファンタジー >> はヒロイック・ファンタジーといった具合でしょうか。 正しくその通りだと思います。 要約しますと、菊地氏の伝奇バイオレンスは、出発点はモダンホラー的狙い があったようだけど、面白すぎてサブ・ジャンルになってしまった、というこ とではないでしょうか。
角銅様 皆さん誤解しています。僕は異生物の攻撃を、身体を張って食い止めるつもりだったのですが、異 生物が無理矢理僕をどかして某作家に……。決して「ラッキー!」だなんて。ホントですよ。高瀬 さんにも訂正してもらわなければ。 倉阪様 ≫私の感覚では小池真理子と菊地秀行はつながらないのですが・・・。 僕としては<モダンホラー>を怪奇小説を現代的に再生する試みとして捉えているので、こういう ことになります。極端なことを言ってしまえば、長編ホラーはいわゆる“挟雑物”が入ってしまう 以上、その大半はモダンホラーとならざるをえないかとも。そこまで言うと、かなり大雑把になる ので気がひけますが。 ≫、「ホラーのサブジャンルとしてホラー・アクションはある。しかし、それは本格ホラーではな ≫い」 は、僕も同様です。ただ、これもまた<ホラー>なんだと、特にホラー外に対して主張したい気持 ちもまたあります。「結局人間が一番怖い」なんてしたり顔で言う人たちを相手に、ホラーについ ての空しい説明を繰り返す経験が多かったもので。
笹川様 「酔っ払った生き物を観賞する会」でもそのあとは笹川様にとっては 「私はいかにして酔っぱらった生き物の攻撃をかわし、 わざわざ上京していた某作家にその矛先を向けさせたか、のお茶会」 となっていたのでは… あ、ゴミです、すみませんでしたm(__)m 皆様はまじめな話題をお続け下さい。
笹川様 >だから、一般には『墓地を見おろす家』で、日本にもモダンホラーが誕生したかのよう >に言われることが多いですが、その前からあったんだと主張したい。 私の感覚では小池真理子と菊地秀行はつながらないのですが・・・。 このあたり、皆さんいかがでしょうか? >まあ、僕は「ホラー・アクション」という概念は“有り”だと思っている人間なので、 >倉阪さんとは前提から食い違っているかもしれませんが。 もちろん私も有りだと思います。ちょっと説明が足りなかったのですが、「ホラーのサ ブジャンルとしてホラー・アクションはある。しかし、それは本格ホラーではない」と 言えばわかりやすいでしょうか。ホラー・アクションには「冒険小説」という一個のジ ャンルであるように見えて実はハイパージャンルという厄介なものが絡んできてとても 手に余るのですが、各ジャンルに冒険小説が配合されるとサブジャンルが生まれるので はないかとおぼろげに考えています。ミステリならハードボイルド(ちょっと違うかな? 名探偵にも配合されているかも。難しいです)、SFならスペースオペラ、ファンタジー はヒロイック・ファンタジーといった具合でしょうか。なにぶん冒険小説の因子がない のでよくわからない部分も多いのですが。 八尾の猫様 ミステリー・ホラーという名称はあまり目にした記憶がないですね。いっぽう、ホラー・ ミステリーはなじみがありますが、内実はホラー・サスペンスである場合が多いのでは ないかと思います。濃いミステリなら、カーを引くまでもなく「本格」になりますから ね。
すみません、また改行忘れてしまいました! 自分がとてつもない馬鹿に思えてきました。本文で 頭を悩まし、かつ早くしないと次の書き込みが、と焦っているがゆえのことだとなんとかご理解・ ご容赦ください。送り直します。 比呂様 もちろん気にしてないです。 ガジェットの扱いということに関しては、書き手の思惑と読み手の意識が交差するところに、“作 品”のイメージが立ち上がってくるといった感じでしょうか。両者が一致する場合もあれば、ほと んどすれ違うようなときもある。イメージが狭い範囲に集中したり、逆に広範囲にわたって拡散し たり(分布図のようなものを思い浮かべてます)、あるいは突拍子もないところに突如像が現れた り、と。ジャンルとしての体裁と、“本質”とのギャップとも言い換えられるでしょう。 お話に出たバイオや、サイコといったテーマは、単によく分からない怖いものとしか認識しない人 が多いでしょうし、作家側にだってそういう意識の人(手口として使う確信犯を含む)はいる筈で す。それを、感情としてはジャンル(市場)への侵略、あるいはジャンルからの流出として危惧す ることもあるわけですが、そこは宥和主義者ですからジャンル自体の優劣みたいな話にならない限 りは、鷹揚に構えていたいものだとも思います。 それにしても、SFやミステリだって好きなのについ意固地になってしまうのは、威張られるのが 嫌いだからなのだろうか。 東様 思い切り「思うツボ」にはまってしまいました。関心のポイントがずれていたようで、基本認識の ズレはなかったとは思うのですが、あらためて確認いたしました。評論家の端くれとしては、実際 の運用面についてよく考えてみなければ(あ、自分が、ということです)。 八尾の猫様 ポール・ギャリコの『幽霊が多すぎる』(つい最近創元推理文庫から出ました)はお読みでしょう か? まだ一度も本物の幽霊に出会ったことのないゴーストハンターの話です。『カーナッキ』の 話で思い浮かびました。 倉阪様 僕も菊地氏の大半の作品は、強いて言うなら<モダンホラー>だと思います。だから、一般には 『墓地を見おろす家』で、日本にもモダンホラーが誕生したかのように言われることが多いです が、その前からあったんだと主張したい(僕が多分書くのであろう博士論文にも、そういう主旨が 盛り込まれるのではないかと)。 それはさておき、菊地氏の作品では大抵「恐怖を味わう主体が普通の人間である」と思います(と 言うか「普通の人間」だから「恐怖を味わう」わけですが)。それをもって<ホラー>だなと感じ るわけですが、もちろんエクスキューズなしにホラーと言えるとも思っておりません。まあ、僕は 「ホラー・アクション」という概念は“有り”だと思っている人間なので、倉阪さんとは前提から 食い違っているかもしれませんが。 送り直したので、下は無視してくださいね。
比呂様 もちろん気にしてないです。 ガジェットの扱いということに関しては、書き手の思惑と読み手の意識が交差するところに、“作品”のイメージが立ち上がってくるといった感じでしょうか。両者が一致する場合もあれば、ほとんどすれ違うようなときもある。イメージが狭い範囲に集中したり、逆に広範囲にわたって拡散したり(分布図のようなものを思い浮かべてます)、あるいは突拍子もないところに突如像が現れたり、と。ジャンルとしての体裁と、“本質”とのギャップとも言い換えられるでしょう。 お話に出たバイオや、サイコといったテーマは、単によく分からない怖いものとしか認識しない人が多いでしょうし、作家側にだってそういう意識の人(手口として使う確信犯を含む)はいる筈です。それを、感情としてはジャンル(市場)への侵略、あるいはジャンルからの流出として危惧することもあるわけですが、そこは宥和主義者ですからジャンル自体の優劣みたいな話にならない限りは、鷹揚に構えていたいものだとも思います。 それにしても、SFやミステリだって好きなのについ意固地になってしまうのは、威張られるのが嫌いだからなのだろうか。 東様 思い切り「思うツボ」にはまってしまいました。関心のポイントがずれていたようで、基本認識のズレはなかったとは思うのですが、あらためて確認いたしました。評論家の端くれとしては、実際の運用面についてよく考えてみなければ(あ、自分が、ということです)。 八尾の猫様 ポール・ギャリコの『幽霊が多すぎる』(つい最近創元推理文庫から出ました)はお読みでしょうか? まだ一度も本物の幽霊に出会ったことのないゴーストハンターの話です。『カーナッキ』の話で思い浮かびました。 倉阪様 僕も菊地氏の大半の作品は、強いて言うなら<モダンホラー>だと思います。だから、一般には『墓地を見おろす家』で、日本にもモダンホラーが誕生したかのように言われることが多いですが、その前からあったんだと主張したい(僕が多分書くのであろう博士論文にも、そういう主旨が盛り込まれるのではないかと)。 それはさておき、菊地氏の作品では大抵「恐怖を味わう主体が普通の人間である」と思います(と言うか「普通の人間」だから「恐怖を味わう」わけですが)。それをもって<ホラー>だなと感じるわけですが、もちろんエクスキューズなしにホラーと言えるとも思っておりません。まあ、僕は「ホラー・アクション」という概念は“有り”だと思っている人間なので、倉阪さんとは前提から食い違っているかもしれませんが。
「1め」って「1クールめ」ってことです。消しすぎました。すいません。
本日、「こわい日曜日」の1めがおわりましたが、視聴者の反響が大きい2話というのを 総集編をやりました。 その中の1話がピザ屋の話でした。しかも、トリ。 ということは、ナンバー1だったのおおおおーーー? きーさん、おめでとう。ってちょっとちがうかあ? でも、やっぱりこわかったよお。
東様 だいたい了承しました。本籍ホラー(と言うか怪奇小説)のコウモリなので、「内」と 「外」に関してはニュアンスの違いがあるのですが、ちょっと話がずれるので。 いずれにしても、ジャンル経営論がらみの書き込みをしているヒマがあったら原稿を書 いたり本を読んだりしますので、今後もイデア論に限定します。少しそのあたりにスタ ンスの違いがあるような気もしましたので。 ちなみに、解説を書くときに菊地さんのエッセイ集はおろか「あとがき大全」まで読ん でます。凡ミスです(笑)。 で、その菊地さんの伝奇ヴァイオレンスですが(伝奇ロマンと伝奇ヴァイオレンスは違 うと思いますが)、「現実を侵犯する」(換言すれば「現実が侵犯される」、さらに敷 衍すれば「恐怖を味わう主体が普通の人間である」)という要素に欠けるので、一部の 例外および短篇を除けば「ホラー」ではないと考えます。では、SFかといえば、確か にガジェット的にはSFでも「理屈」の部分がファンタジーなので首をかしげます。ほ かの西部劇、ハードボイルドなどの要素もありますし、ひと言で評するならジャンルミ ックス型の「モダンホラー」しかないのではないかと思うのですが(比呂さんとかなり 近いです)。
以前にも書いた通り、ジャンルの名称にはさしてこだわりがない・・・「面白ければなんでもよ い」・・・という性質なので、あまり価値のある発言ができないのですが、たとえば「ミステ リー・ホラー」と「ホラー・ミステリー」という呼び方がある場合、前者が「ミステリー的な味わ い、あるいはミステリー的に、つまり論理的に解決されるホラー」で後者が「ホラー趣味、つまり 怪奇的な雰囲気に彩られたミステリー」なのでしょうか。これも単なるキャッチフレーズなのか な。 ホジスンの話題です。ドラキュラ叢書のタイトルも「緑の幻影」の文字も双方緑でしたが、真夜 中になっても色は変わりませんでした。ドラキュラ叢書を読んで初めて知ったのですが、「幽霊狩 人カーナッキ」は原題が Carnacki The Ghost Finder なのですね。私はてっき り「狩人」なのでHunterだと思っていました。カーナッキが怪奇事件を解決していく話なので「幽 霊探索者カーナッキ」ではピンと来なかったのでしょうか。ブラックウッドが創作したライバルの ジョン・サイレンスの方も、Physician Extraordinaryで「妖怪博士」ですし。(角川ホラー文 庫です)。それにしても養豚と聞いて以来、私の頭の中からも養豚の文字が消えません。 やなせたかしといえば、「やなせたかし三分間劇場」という叙情的な掌編を集めた幻想小説集を 出していたのではないでょうか。私はアンパンマンのテーマソングしか歌えません。以前から疑問 に思っていたのですが、あの世界は他の動物は服を着て動き回っているのに、なぜチーズだけが ペットとして飼われているのでしょう。そして自分の顔面を食べさせ、投げ、時として武器として 使用し、しかも頭部を含めて何度でも再生できるアンパンマンは、よく考えて見れば恐ろしいヒー ローですね。伊藤潤二の「富江」にも勝るとも劣りません。実写では到底できません。ぶるぶる。 (言うまでもなく冗談です)
どうも基本認識にズレがあるようなので(中島氏を除く)確認しておきますが、 別に「怪奇の血」に限らず、こうしたタームというのは、いわば一種の「キャッチ フレーズ」であるわけで、それ以上でも以下でもないと小生は考えます。 鬼さん言うところの「内」に対しては、共通了解の符丁もしくは指標として機能 し、「外」に対しては「それってナニ!?」という関心を惹起する起動装置みたいな ものとして機能する(こともある)。 まあ、ネーミングとして「怪奇の血」がいいのか「猟奇の魂」や「ホラー・スピ リット」「怪談力」がふさわしいかは論議の余地があるかもしれませんけど(笑)。 ですから、「この作家(作品)には〈怪奇の血〉が感じられる」だけで、批評に ならないのは当たり前というか、論外。「おまえも使ってるじゃねーか」と言われ そうですが、小生としてはこのタームを、ジャンル区分や、笹川氏のいう「ジャン ル・アイデンティティ」の問題に関わるときの指標として、もしくは標語として、 あくまで限定的に使用しているつもりです(というか、そもそも菊地氏が最初にこ の言葉を使ったのも、「怪奇小説」と「SF」のジャンル問題に関わる言説中であ ったことに注意!)。 また、こういうキャッチフレーズが流通するようになって出てくる「〈怪奇の血〉 ってナニよ!?」という内外からのクエスチョンに対して(その意味では、ここ数日 の当掲示板の展開は、まさに思うツボだったりして!?)、様々な形で応えていくの が、評論家の役割だろうと思うのですね。 手前味噌で恐縮ですが、たとえば『ホラーを書く!』という本は、丸々一冊費や して「怪奇の血とは何か」を具体的に追求する試みでもあったわけですから(その へんは、同書のまえがきでも言明しているとおりです)。 少なくとも小生としては、そうした展望と用意と覚悟のもとに、このタームを使 用していると御理解いただければ幸いであります。 倉阪様 >批評行為というのはある程度主観的・直観的なものでは? おっと、これは言葉が足りませんでした。反省(笑)。次のように訂正します。 「作家だからといって、主観や直観のみに安易に依存した物言いは許されないだろ う」 作家だろうと批評家だろうと、主観や直観に発するのは同じですし、それに客観 性を付与すべく最大限の努力を払うべきなのも同じ、でしょう。たとえば「怪奇の 血」について言及するなら、その創案者である菊地氏のエッセイ集を一応チェック する……くらいは当然なされてしかるべきだろう、ということです。 すでにお察しの向きも多いかとは思いますが(笑)、どうして上記の点に小生が 口やかましいことを言うのかといえば、作家の発言というのは、当人が思っている 以上に広範な読者に影響を与えてしまうから、なのですよ。 ホラーを代表する作家たちがホラーについて何かを語れば、多くの読者はそれを 無批判に信じてしまいがちである、たとえそれが事実誤認に基づくものだったり、 独断と偏見の産物だったり、政治的&営業的思惑を含む(このへんは鬼さんとは無 関係です)ものであってもね。 だから活字上であれネット上であれ、発言には慎重の上にも慎重に、と切望する 次第であります。鬼さんの前信にもあったように「怪奇の血」の命名者が菊地秀行 でなかったら、こんなに流通したとは思えませんし、それだけに責任も重いだろう、 ということですよ。 >思い切り主観的に?書きますと、「怪奇の血だと内で閉じて終わるでしょ。もっ >と分析的に書くと外との関係が生まれるでしょ」ってことなんです。 こっちのほうが、はるかに分かりやすいんですけど(笑)。 怪奇の血と「内」「外」の関係については先述のとおり。
>笹川吉晴 さま すいません。どうもカット&ペーストでお名前を書いているときに、間違えて後ろ半分を カットしてしまったまま、アップしてしまいました。 (本文で精一杯だったりして気がつきませんでした) 本当にごめんなさい、です。 ジャンルにこだわる、という部分ではあたしはかなり偏狭にこだわっています。 ただ、そのこだわりが過ぎると、辛いというところで、菊地さんの話題を出したり しています。 「怪奇の血」自体がジャンルへのこだわりであったり、作品へのこだわりであったり そういう意味で心地よい言葉ではあったります。 SFマインドと同様の危惧っていうのも、自分は感覚でつかんでいるのだよ、という 言い訳にしたくないためこともあります。 少なくとも評論では使いたくない言葉だと思うのですよ。 SFの先輩とバイオホラーの話をしていましたときに、「今の子供たちは、遺伝子や 分子生物学をわけのわからない怖いもの、と認識しているから、SFとして紹介される べき作品がホラーとして世にでたり、ホラーのガジェットとしてバイオが使われてしまう。 SFファンとしてはなんだかなあ」っという話をされたことがあります。 そのお話だとむしろガジェットの扱い方にSF的であるか、という部分があり、恐怖は 本質ではない、むしろサイエンスに基づく新しい視点がもたらすWONDERが問題なのだ、 ということになります。この意味ではガジェットさえサイエンス(人文も含め)であれば ホラーとSFが共存するエリアがあることになりますね。 どちらで読み解くかが、血の問題(評者の嗜好)という感覚ではあります。
大分難渋して書き込むと、すでに新たな書き込みが・・・・・・。 倉阪様 先日も書いたように僕は宥和主義者ですので個人的には、ジャンルにこだわるのは必要最小限にとどめたいと思っています。ただ、どうせやるなら、そのときは徹底して欲しいとも思います(どのジャンルでも)。 それから下の書き込みで「考えに、特に考えさせられました」というのは、ちょっと見苦しかったですね。 とりあえず今日はここまで。
皆さんそれぞれへレスすべきなのですが、重なるところが多い分をこちらにまとめて失礼します。 ここしばらく問題になっているのは、単純に言ってしまうと“ジャンルのアイデンティティ”とい うことだと思います。 それぞれのジャンルには、(人によって多少ポイントは違うにせよ)それぞれに特有の面白さがあ るわけで、そこにこだわるのは当然でしょう。ただ困るのは、ジャンルのアイデンティティがその まま、自分という人間のアイデンティティにすり替ってしまうマニアがしばしばいることです(こ れが好きな−あるいは解る俺って、というやつですね)。こういう人は、自分の好きなジャンルと 他ジャンル(というか自分と他ジャンルの人間)の差異を、(意識的・無意識的はともかく)とも すれば優劣にすり替えたがる傾向があるように思えます。 特にホラーはSFやミステリに比べて非論理的なので、自分が論理的思考の出来る人間であること を自負するSFやミステリのファンの中には、ホラーを愛好する人間は論理的思考の出来ない、感 覚的な人間であると見下したがる人が見受けられます(これはもちろん、僕が直接・間接に見聞し た中にそういう人が多いと感じるということで、そうではない人ももちろんたくさんいます。その 点誤解なきよう)。 だからこそ、ホラーについて対外的に語るときは論理に注意深くあるべきだなあというのは、最近 よく思います。そんな状況では、「怪奇の血」というのは皆さんのいろいろなご意見があるよう に、諸刃の剣ですね。その点、個人的には倉阪さんの言われる「関係性」という考えに、特に考え させられました。 ちょっと急いでいるのでまとまりがありませんが、とりあえずはこんなところでしょうか。結論と かいうよりは、現時点での感想のようなものです。
笹川様 知らなかったんだってば。牧野さんが来るのなら行ったのに。 これだけじゃあんまりなので、「京極夏彦の世界」。 東さんの評論の出だしは一瞬「ムー」と間違えたのかと思いましたね(笑)。 うーん、ほんとに京極さんは「花田清輝全集」を持っているのだろうか? ちなみに、個人的には衒いの付きまとうセンテンスの長い花田清輝の文章は 苦手なのですが(文章家であることは認めての発言です)。 同書でもっとも刺激を受けたのは野崎氏の評論でしたね。やはりあの分厚くて バカ高い「北米探偵小説論」を買って読まねばいかんのだろうな・・・。
中島様(笹川様) >ミステリの視点からホラーを評するとどうしても低くなってしまうのは当然なん >ですけど 「ホラーの視点からミステリを評すると」とも置き換えられますね。個人的にはミ ステリとホラーは同根だと思っているし、アナログ(非論理)とデジタル(論理) が一体となっているのが一つの理想でもあるので、あまりジャンル・セクト的にな るのは発展性に欠けるかなと思います。 >酔っ払った生き物を観賞する会 某「ブスホラー」クイーン(切るところを間違えたらボコ殴りだな)の日記を読んだ 瞬間に情景が浮かんでしまいましたね(>笹川様)。 >あれ、これはピーター・カッシングではなかったですか? それとも、三人 >とも同じことを言ってたのでしょうか。どなたかご存じないですか? >同じ怪奇俳優でも、ヴィンセント・プライスだとまず言いそうにないですよ >ね(笑)。 うーん、カッシングも「吸血蛾クレア」とか凡作に結構出てるからなあ・・・。 確かに「怪人ドクター・ファイブズ」や「ビキニ・マシン」の主演者が言ったら 世間が許さないでしょう(笑)。
東様 「日下、怪猫映画漬け」かと思ってしまいました。それはさておき、 ≫『魔犬召喚』の解説、立ち読みしたよん。いやー、御苦労さまです。健闘を祈ります。 ありがとうございます。でも、またそういう意味深なことを〜(それとも深読みしすぎか?)。 比呂様 ≫>笹川 一瞬怒られたのかと思ってシュンとしてしまいました。 八尾の猫様 読書の時間は、皆大抵乱歩でしたね。どれが気持ち悪いかという情報が飛び交い、文末が「だ・で ある」調の作品は気を引き締めて読んだものです。逆に、気の弱い奴は「です・ます」調のしか読 みませんでした。 中島様 楽しいアイディアを思い付かないでください。同居人がすっかり気に入って、うちの猫に呑ませた がってます。 倉阪様 田中さんや牧野さんと「倉阪さんはさすがに三日連続になるから来ないだろうなあ」という話をし てました。ちなみに、カラオケには一瞬なりかけましたが、結局おとなしく(暴れている生き物、 もとい人も若干1名いましたが)お茶で締めくくりましたのでご安心(?)を。
東様 >それより非常に気になるのは、「作家だから」とか批評家だからといった形で、 >批評行為を区別するのはヘンでしょう。 一般論にしてしまったのは確かにまずかったですが、例えば菊地氏の場合は、実 際に怪奇の血が流れている(どうしても私の言語感覚に照らすと違和感がありま すが)作品がありますから読者に伝わるものがあります(アナロジーを求めやす いと言いましょうか)。そうではなく批評家が単独で「怪奇の血」を用いた場合、 あまりにも茫洋としている。だから、もう少し分析的に書くべきだと主張してい るわけです。むろん、中島さんの主張も一理あるので、せんじつめれば感覚の相 違なのでしょうが。 個人的な話なら、「どうも自分は作家でもあって、適切な用語を使って論理的に 伝えられないうらみがあり、批評家モードでは忸怩たるものがある」という感慨 はありますが(笑)。 >いったん「批評」という土俵(リングでもいいけどさ)に上ったら、作家だろうが >評論家だろうが、そんなことは本来関係ないはず。作家だから主観的あるいは直観 >的な物言いが許される……と考えるのは、たんなる甘えにすぎないと思いますが。 >また、笠井潔氏をはじめ、作家業と並行して真剣に批評行為に取り組んでいる方 >々に対して、ちょっと失礼な気もしません? うーん、研究なら客観的ですが(厳密にはそうじゃないんだけど)、批評行為とい うのはある程度主観的・直観的なものでは? 笠井さんの批評だってそう思うけど。 むろん、客観性をないがしろにしない努力は重要ですが、主観や直観を含まない批 評は個人的にはあまり魅力を感じませんね。 ただ、ホラー批評はどうしても主観に左右される部分があるので(「怖い」「怖くな い」を基準にすると個人差が出るし)、「怪奇の血」ではなくもう少し分析的な言 葉で・・・とループしてしまうのですが。 それに、批評家と作家の批評の差異を視野に入れることはあながち無意味でもない と思いますけど。 >>要するに、怪奇の血だと「関係性」が生じないんですよね。ホラーのエッセンス >>は「それ自体」としては存在しないのだから、分離性(独自性)に重きを置くの >>は当然のことながら関係性も付与された言葉で表現する必要があるのではないか >>と考えるわけです。 >このへん、例によって主観的で(笑)分かりにくいので、もう少し詳しく説明を! べつに主観的じゃないですよ。直観的ではありますが(笑)。思い切り主観的に? 書きますと、「怪奇の血だと内で閉じて終わるでしょ。もっと分析的に書くと外との 関係が生まれるでしょ」ってことなんです。「怪奇の血が流れている(またはいない)」 と評された作品に接してピンと来なかった「内」ではない読者もしくは作者の反応は、 下手をすると「自分には怪奇の血が流れてないんだ」で終わり、ホラーから離れかね ないと思うんです。そうではなく、内で完結しない言葉で説明すれば(むろんテキス トに応じて)関係性が生じて距離が測れる(差異がわかる)と思うのですが。 笹川様 >酔っ払った生き物を観賞する会 知らなかったよー。でも、行ったら三日連続のカラオケで死んでたかも(笑)。 八尾の猫様 ありがとうございます。ドラキュラ叢書は持っているのですが、手に入りやすいほうに 合わせました。それに、「妖豚」だと「養豚」みたいだし・・・。
>酒井様 こないだホラーマンが登場したのは、お人好しで皆に愛されているホラーマ ンが、恐怖界の伝説的人物らしいホラー男爵(「伯爵」にあらず)に叱られて ……というお話でした。中世風の装束を身に纏い、朽ち果てた古城に住むホラ ー男爵の姿を見て、「これではホラーというよりゴシックではないか!」など とテレビに突っ込んだのは全国でも私ぐらいのものでしょう。 >>(小声ですが、わたしアンパンマン体操唄って踊れます。ご子息とお友達になれそうですか?) なれます(きっぱり)。 うちの次男は、大きくなったらアンパンマンになると決めているのだそうで す。あるとき長男に「そしたらアンパンマンが二人になるやんか!」と突っ込 まれ、幼いなりに一瞬疑問が頭をよぎったらしいのですが、次の日にはそうい う都合の悪いことはきれいさっぱり忘れてしまったようです。 >> ボリス・カーロフやクリストファー・リーは自分の出ている映画はホラーではなくテラーと呼ん >> で欲しいといったとか。 あれ、これはピーター・カッシングではなかったですか? それとも、三人 とも同じことを言ってたのでしょうか。どなたかご存じないですか? 同じ怪奇俳優でも、ヴィンセント・プライスだとまず言いそうにないですよ ね(笑)。
深夜の都内某所に集った覆面の男たちが、ネコを押さえつけて口に無理矢理 ワインを注ぎ込み、 「トラだ、お前はトラになるんだ!」 などといじめたりする会でしょうか。 >笹川様 ミステリの視点からホラーを評するとどうしても低くなってしまうのは当然 なんですけど、いくらマニアでも他ジャンルに接するときには視点の切り替え ができないとまずいですよね。というか、本人が損をしているんだけどなあ。 もちろん、思考の実験とかお遊びとしてホラーをミステリ的に読んだりする のは構わないのですが。 >比呂様 ホラーにおける「超自然的恐怖」と「怪奇の血」が、SFの「センス・オブ ・ワンダー」と「SFマインド」──と言いたいところだけど、「センス・オ ブ・ワンダー」の定義は割と曖昧さがあって、SFファンの話を聞いていると 時には「それって幻想文学とどこが違うの?」とか、「何でもかんでも面白け ればSFにしてない?」と思わされることって確かにあります(その一方で、 立派に心が狭いSFファンももちろんいます)。でも、「怪奇の血」は今のと ころ逆の方向性にしか用いられていないですし、そんなに神経質になることも ないのでは? 私の場合、そういうSFの状況を目にしたせいもあって、曖昧さに陥らない ために「超自然的恐怖」によって何とか理屈付けしようとしているわけです。
東様 >平井呈一翁の怪奇小説関連のエッセイを網羅しよう! という素晴らしい企画なのです う、うわ〜、ホントですか!? うれしーなったら、うれしーなー♪ 実は近頃、英国怪奇短篇小説をまとめて読んだ余波で平井翁の『ひゅーどろ三夜噺』などを読み 返し、今度『幻想文学』の読者カードに、「平井翁の特集を再び」とリクエストしようかなァと 思っていた矢先ですので。平井翁の俳句も、まだ拝読したことがないので、収録されると嬉しい ですねー。『平井呈一全集』が出るともっと嬉しいです。 中島様いなば様 私も浅羽通明氏は「外野」の方だとは、思っていなかったんですが……。 ただ、『活字狂想曲』の解説(初読者は「私は『バカ』で会社を辞めました」から読み始めるの も一興だろう)には、どうにも賛同しかねます。 中島様 ホラーマンの口調は、まんま淀川長冶氏ですよね。いまどきのコドモは「ホラー」というと、ホ ラーマンを思い浮かべてしまうのかも。(小声ですが、わたしアンパンマン体操唄って踊れます。 ご子息とお友達になれそうですか?) 八尾の猫様 私は中学の図書館の片隅で、「鏡地獄」にときめきました。 ボリス・カーロフやクリストファー・リーは自分の出ている映画はホラーではなくテラーと呼ん で欲しいといったとか。 私としては、『地獄の黙示録』ラストシーンの「ホラー……ホラー……」と「恐怖を友とせよ」 のセリフを、何となく思い出してしまいます。その点からもキム・ニューマンの「ナイトメア・ ムービーズ」はすごく気になっているのですが。
本日「緑の幻影」を購入、読了いたしました。表紙の女性と目が合った瞬間、ちょっと怯みまし た。生意気な言いようですが、やはり倉阪さんの一番いいところは「怖い」ところだと思います。 「死の影」のあとがきでもおっしゃってた通り、ホラー隆盛と呼ばれる今日にあっても、面白いも のはあっても怖いものはそうそうありませんから。個人的にはスプラッター描写よりも院長が手袋 をはめているとあったときに「来たな」と思いましたが。ちなみに私がクトゥルーで一番好きなの はインスマスです。作品のベストも「インスマスの影」。神どころか家畜。 作品中の会話にも出てきましたが、ちょぅどいま国書刊行会、ドラキュラ叢書、ホジスン「幽霊 狩人カーナッキ」を手にしています。こちらは黒い背景に、洒落たグリーンの飾り英文字で題名が 浮かんでいる趣向です。話の内容はもちろん、装丁、各話ごとの山田維史さんのイラストレーショ ンも大変神秘的で美しいです。「緑の幻影」の会話中に出てきた「外界の豚」はこちらでは「妖 豚」になっています。翻訳は大滝啓裕さんです。 笹川様 私は図書室の片隅でジュブナイル版「影男」にときめきました。影男がユートピアに導かれ、互 いにナイフで刺したり刺されたりしている男女を見て、案内人に「あの二人はああやって刺したり 刺されたりするのがすきなのですよ」と囁かれるくだりが。知人の中には「黒い魔女」(黒蜥蜴) で黒蜥蜴と明智との関係にときめいた、というものもいたので、同好の士は多いと思われます。 「ホラーの人」という言い方については、私はホラーもミステリーも等分に好きなので、「理に 落ちない」から、というので顔を背けられるのはちょっと。話として面白ければいいんじゃない か、と思います。
>笹川 >>僕が菊地氏の作品の大半を<ホラー>と呼ぶことにさして抵抗を感じないのは、非親和的世界と >>対峙する孤独感の部分に最も感応しているからだと思います。 主人公の孤独、は菊地氏の特色ではありますが、ハードボイルドというか、それこそ初期に言及されて いた昔懐かし「駅馬車」や西部劇の影響下であると捉えているのです。もちろん、ジャンルミックスと してのモダンホラーと位置づけてしまえば、菊地さんはホラー作家とは思うのです。 (自分にとっても特に大事な作家の一人でもあるのです、、、、) で、なぜ「怪奇の血」という言葉に過剰反応しているかというと、「SFマインド」という言葉と 同様の胡散臭さを感じてしまうのですよ。いや、SFマインドという言葉を巡る議論の不毛さとでも いいましょうか、、、、。中島さんが前に書いてた境界領域もみんなSFにしちまう、というか(^^;) そんな部分もあって、過剰に気になるのですよ。(またコウモリな発言ですが(^^;)) >>そう言えば、高校の頃に『ゾンビ』はSFじゃないと怒ったSFファンの友人は、「笠井潔と夢 >>枕獏はSFだけど、菊地秀行はSFじゃない」と言い切ってました。 あたしの場合は、おそらく「ウルトラQ」と「アウターリミッツ」の影響が大きいと思うのですよね。 どちらもSFでもあり怪奇でもある、、、。 で、自分でも菊地秀行はSFじゃない、と断言できます(笑)。獏さんがSFかどうかは別にして(^^;)。
ご連絡が遅れて申し訳ありません。昨夜は、酔っ払った生き物を観賞する会(I野さんすみま せん!)に行っておったもので。とりあえずメールをお出ししましたので、よろしく。 シェヴァイク様 最近の子供向けのものは、総じて作りがおとなしく、今一つアピール度が弱いように感じます。 イラストなども、どちらかというと可愛らしい感じですし。作品のセレクトなんかには、妙にマ ニアックなものがあったりもするんですけどね。子供がそういう方が好きなら、とりあえずは仕 方がありませんが、大人側が自主規制しているとしたら困りものだと思います。子供に、図書室 などで後ろめたさを感じながら楽しんで欲しいというのは、勝手な思い込みでしょうか? 八尾の猫様 僕が「ホラーの人」という言葉に差別めいた響きを感じてしまうのは、ミステリ方面の人と話す ことが比較的多いからかもしれません。どうも「理に落ちない」ホラーを、意識的・無意識的は ともかく、ミステリよりも一段低く見ている人が多いように感じられて。ひがみかもしれないし、 使う人個人の使い方の問題もあるから一概には言えませんが。
>いや、そうではなく、作家が批評の言葉として〈怪奇の血〉を使うのはOKなん >だけど(批評モードの菊地氏のように)、批評家はもっと分析的な言葉を使って >しかるべきではなかろうかと思うわけです。 もちろん分析抜きに〈怪奇の血〉の一語で済ませるのは論外としても、先に中島 さんが指摘しているような方向で用いるのであれば、逆に分かりやすくてオッケー だろうと思いますよ。 それより非常に気になるのは、「作家だから」とか批評家だからといった形で、 批評行為を区別するのはヘンでしょう。 いったん「批評」という土俵(リングでもいいけどさ)に上ったら、作家だろう が評論家だろうが、そんなことは本来関係ないはず。作家だから主観的あるいは直 観的な物言いが許される……と考えるのは、たんなる甘えにすぎないと思いますが。 また、笠井潔氏をはじめ、作家業と並行して真剣に批評行為に取り組んでいる方 々に対して、ちょっと失礼な気もしません? >要するに、怪奇の血だと「関係性」が生じないんですよね。ホラーのエッセンス >は「それ自体」としては存在しないのだから、分離性(独自性)に重きを置くの >は当然のことながら関係性も付与された言葉で表現する必要があるのではないか >と考えるわけです。 このへん、例によって主観的で(笑)分かりにくいので、もう少し詳しく説明を!
東様 >その前年に書かれたエッセイ「もうひとつの世界」・・・ そ、そうだったのか(笑)。撤回します。 >ついでに言うと「作家ならともかく、批評家はあまり使うべきではないと思ったり >しますが」ってのは逆じゃない? 作家が自分で「俺様には〈怪奇の血〉が流れて >るんだぜぃ」とかって公言するのは……どーかと思うけど(笑)。 いや、そうではなく、作家が批評の言葉として〈怪奇の血〉を使うのはOKなんだけ ど(批評モードの菊地氏のように)、批評家はもっと分析的な言葉を使ってしかるべ きではなかろうかと思うわけです。SFの批評家が「SFのフェロモンが濃い」とか 書いたらまずいでしょう。ミステリの批評家は「本格のスピリット」をたまに使いま すけど、ホラーと違って〈型〉があるからわりとわかりやすい部分がありますが。 要するに、怪奇の血だと「関係性」が生じないんですよね。ホラーのエッセンスは 「それ自体」としては存在しないのだから、分離性(独自性)に重きを置くのは当 然のことながら関係性も付与された言葉で表現する必要があるのではないかと考え るわけです。具体的にどう書けと言われたら困るけど(笑)。
中島様 >カタカナだとやっぱり間抜けですよ。 まあね(苦笑)。でも、それを言うなら「SF」なんてただのアルファベット2 文字だし、「ファンタジー」なんて爺さんがファンタを飲んでるみたいでは…… (ひゅうるるるる〜)。 >むむっ、これはどういう作品が入っているのでしょう? マニアとしては保存の >利くハードカバーで出して欲しかった気もしますが。 おっと「作品集」というのは誤解を招く言い方でしたね。要するに「真夜中の檻」 と「エイプリル・フール」を核に、併せて平井呈一翁の怪奇小説関連のエッセイを 網羅しよう! という素晴らしい企画なのです(エライぞ、TS社のM氏!)。 ちなみに現在、雑誌等に発表された翁のエッセイを蒐集中なのですが、なにぶん にも活動期間の長かった方ゆえ、書誌情報が不足しております。「こういう珍しい エッセイを知っている」という方から御教示を賜れれば大変に幸甚であります。な にせ、最初で最後の機会かも知れませんので(笑)。 笹川様 『魔犬召喚』の解説、立ち読みしたよん。いやー、御苦労さまです。健闘を祈りま す。 ミステリの人の鷹揚さには、学ぶべき点が多いと思いますね、いやホント。 フク様 す、すいません、たまーにしか出てこない手合いが、横からさらっちまって(ぺ こぺこ)。 「は、まさか、私ごときが持っていてはいけない本なのか??」なんて、とんでも ない。そんな稀少本でもないっしょ? ところで『京極夏彦の世界』、いかがでした? コアな京極ファンのリアクショ ン、怖いっす(笑)。 比呂様 あんな与太話に、早速お付き合いくださいまして誠にありがとうございます。 >「続群書類従」なんて、そうそうみんなは読んでいませんよ(^^;)。 ははは、そりゃそーだ。なにせホレ、活字化されてるだけでも御の字、という世 界の話ですからね。
「怪奇の血」というタームの発案者が菊地秀行氏であることは事実ですが、 >菊地さんが最初に使った「怪奇の血」は意味合いが違うんですよね。要するに、 >親父さんが怪奇好きでその血が流れているという意味です というのは、厳密にいうと正しくないのよ、鬼さん(笑)。 上記の指摘は『魔界シネマ館』所収のインタビュー「恐怖自叙伝」(86年初出) を踏まえたものだと思うけど、その前年に書かれたエッセイ「もうひとつの世界」 の中で、すでに「夢枕獏氏の『魔獣狩り』は、精神ダイバー、精神コンバーター等 の見事なSFの設定を考慮しても、やはり作者の血管には怪奇の血が濃いと思われ るし、抒情の作家レイ・ブラッドベリのSFにも、怪奇の核を有する作品が多い」 という用例が見いだされるわけです。 父親も怪奇好きで云々というのは、たまたまインタビューの主旨が「ホラー好き の由来」を幼少年期にさかのぼって問い質す性格のものであったがゆえのリップサ ービスに近いものと捉えるべきで、氏が「怪奇の血」という言葉に託しているもの の本質とは、分けて考えるべきでしょう。サラブレッドの話じゃないんだから。 ついでに言うと「作家ならともかく、批評家はあまり使うべきではないと思った りしますが」ってのは逆じゃない? 作家が自分で「俺様には〈怪奇の血〉が流れ てるんだぜぃ」とかって公言するのは……どーかと思うけど(笑)。またその意味 でも、菊地氏の発言の真意はソコにはなかったと思うのよ、OK? で、小生が、例の物議をかもした『ラヴ・フリーク』の書評で、この言葉を持ち 出したのは、まさしく菊地氏の「もうひとつの世界」の内容を踏まえてのものだっ たわけですよ。 「正直に告白すれば、私は怪奇小説とSFをはっきり別種のフィールドと考えてい る。SF的手段の怪奇小説、怪奇的ムードのSFはあり得るだろうが、両者の本質 はあくまで別のものだ。怪奇小説は怪奇小説。SFはSFである」(同編より) そういう明確な認識というか自覚の感じられない作品が目についたので「これは ホラーではない」と指摘したんですがねー。どうもそのあたり、〈異形〉の一部の 方々にはいまだに理解されていないようで残念です。 ま、そんなことはどうでもいいんだが(笑)、この言葉は、相変わらず混沌とし たホラー・シーンを交通整理するための批評タームとして、今後も大いに活用され てしかるべきと考えますです。
超自然的恐怖原理主義的に説明するならば、ホラーの本質はあくまで超自然 的恐怖(これは怪奇と言い換え可能かも)で、それに親和性が高い性向を「怪 奇の血」という呼ぶわけです。ここまでは菊地氏の用法とそんなに外れていな いですよね。 そして、ある作品を評するときに、超自然的恐怖が作者が生来持っている資 質から生み出されていることが強く感じられるような場合には、「怪奇の血が 濃い」という表現を用いる。これも批評の方向として間違ってはいないはずだ と思います。 ところが最近、ホラーの本質を「怪奇の血」であるかのように論じられてい る方を、ネット上でときどき見掛けます。ここまで行くと、書き手が生来ある 性向を有するか否かで作品の価値が決まるような理屈になりますから、倉阪さ んのおっしゃる通り、菊地氏の用法からかけ離れているし、批評を放棄してい るに等しいようなことになりますね。たとえ書き手に「怪奇の血」があっても それを小説に表現し得ているかどうかは、また別の問題ですから。 ところで、昔の日本のスーパーナチュラルでない怪奇(何だか変な言い方で すが、「ナチュラルな怪奇」だともっと変。古風に「猟奇」と言ってもいいか 思いますが)についてですが、最近の「人の心がいちばん怖い」的サイコより ホラーに近しい感じがするのですけど。非現実的なロマンの味わいがあるとい うか。 少ししか読んでいないんですけど、洋物でも最近の鬼畜ホラーより、昔の猟 奇パルプの方が完全に壊れてて良いですよ(ケッチャムは例外かも)。
まだお疲れのようで、下の書き込みに「が」が頻出しております。すいません。 話変わって、古書展でたまに「怪奇小説」と銘打たれた昔の本を見かけますね。たいてい 中を検めて戻しますが、カストリの「怪奇」を含めてこのあたりにまで反応していると大 変なことになりそうです(笑)。
「魔界都市ブルース〈陰花の章〉」の文庫解説にも書きましたが、菊地さんが最初に使った 「怪奇の血」は意味合いが違うんですよね。要するに、親父さんが怪奇好きでその血が流 れているという意味です(ちなみに私にはまったく流れていませんが)。で、現在はずい ぶん用法が拡大されているわけですが(作家ならともかく、批評家はあまり使うべきでは ないと思ったりしますが)、怪奇の血には熱血と冷血があるようですね。熱血(怪物派)、 冷血(幽霊派)という分類はどうでしょうか。なお、菊地さんの長篇の大半は、モダンホ ラーではあるけれども(要するにジャンルミックス)ホラーではないと個人的には考えます。 「銀月譜」などはホラーですが。 >「ゾンゲリア」 ホラーのベスト10に入る映画ですね。実は、「死の影」と「緑の幻影」に少し配合して います。
私は「怪奇」と聞けば古風であると同じに、「恐怖一筋」という感じがします。「ホラー」と 言えば、最近の流行もあるのかもしれないですが、ジャンル・ミックスの味わいを感じます。私自 身としては「ホラーの人」という言葉に蔑称めいたものは感じません。(笹川さんがそう思ってい らっしゃると感じているわけではありません) 戯言ですけれど。
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こんにちは、皆さま。 私も「怪奇」という言葉に心魅かれて、自分の属性もそこに見いだせると思っ ています。理由は、「ホラー」より古風で趣があるように感じられることが一つ、 もう一つは、<真怪>への関心の比重も大きいためです。 「怪奇の血」という言葉は、菊地秀行氏が使い始めたかと思いますが、SFM での東さまの『蘆屋家の崩壊』評でもあったように、褒め言葉として流通してい るのは嬉しいですね。私が倉阪氏のファンになったのも、「怪奇小説家」という 肩書きをこだわりをもって使っていらっしゃる心意気に感動した面もあります。 ただ、以前に確か中島さんが書いておられたように、「怪奇」という言葉もス ーパーナチュラル以外の意味で使われた時代もあったようで、牧逸馬なんかがそ うですね。今で言えば、『世界猟奇実話』とかになるんでしょうが。 そう言えば、『奇譚』とか『実話』と称してHな話ばかりーーという出版物が 隆盛した時代もありました(『緑の幻影』にも出てきますが)。 P.S.>笹川さま。 学研のジュニアチャンピオンコースというと、先日関西へ行ったおりに、子 供の頃読み耽った佐藤有文『絵ときこわい話 怪奇ミステリー』という本を見つ け懐かしさのあまり購入しましたが、巻末の小説はジョン・バングス「水幽霊」、 八雲「食人鬼」、アダムス「動き出した死体」、マリヤット「人おおかみ」でし た。イラストも水準高いですし、今から考えてもなかなかよい読み物だなと思い ました。 P.S.>倉阪 「辛口の貴兄」ーー汗顔の至りです。日本でゾンビ物をやる時に「火葬」は 厄介ですが、「ビヨンド」「地獄の門」みたいに<肉を纏った悪霊>のような存 在にするか、あるいは「ゾンゲリア」みたいに周囲の人間が実は死んでいるじゃ ないか?ーーという恐怖は、有効にも思うのですが。 P.S.>中島さま。 どちらの肩書き使っても、縁なき衆生から見ると怪しい人であることには、 変わりありませんね^^;)。
このところ連発で、ホント申し訳ないです、特に管理人様。また改行忘れてしまいました。 送り直します。 フク様 何かよくないことが起こらないうちに、急いで僕のところに送ってください! 比呂様 僕が菊地氏の作品の大半を<ホラー>と呼ぶことにさして抵抗を感じないのは、非親和的世界と 対峙する孤独感の部分に最も感応しているからだと思います。例えば八頭の大ちゃんなんか口調 は明るいけれど、毎回知らなきゃよかったことを背負わされますよね。『インベーダー・サマー』 は僕も大好きな作品ですが、あれも世界が変貌していく中で、主人公だけが孤独であるがゆえに 変わらない。 そういう感覚が好きなのは、幼少の頃の『仮面ライダー』(怪奇、アクション、そして主人公も 孤独な“怪物”)の刷り込みと、小学生の頃に毒々しいイラスト付きで読んだ名作怪奇小説のリ ライト集(学研のジュニアコースとかそういった類のシリーズでした)に収録されていた「アウ トサイダー」「血の末裔」「20000フィートの戦慄」の衝撃に、端を発しているようです。 そう言えば、高校の頃に『ゾンビ』はSFじゃないと怒ったSFファンの友人は、「笠井潔と夢 枕獏はSFだけど、菊地秀行はSFじゃない」と言い切ってました。 中島様 「怪奇の人」というのは、何か小説のタイトルめいていて“気品”がありますね。「ホラーの人」 というのは、それに比べるとどこか蔑称のようです。「あの人はホラーの人だから」「ああそう そう」などという感じで。 でも、「ホラー」が決して嫌いなわけではないんですよ。
>東さまへ ということで、「京極夏彦の世界」ゲットしました。表紙は埋まった親父でしたね(^^;)。 早速、「匣と陰陽師」を読みましたが、まだ断定はしないよ、という注釈をいれつつも 京極作品をきっかけにした蘆屋道満(に代表される市井の陰陽師)と匣の関係論という 非常に美味しい内容でありました。(大内鑑くらいですね、道満が善人の芝居って) 今回の評論を読んで、「蘆屋家の崩壊」が悔しかったことがよく判った気もします。 京極論としては、自分もノーマークにしていましたが、花田清輝との時代も含めた 共通項に着目する、という部分に刺激を受けました。 追伸:「続群書類従」なんて、そうそうみんなは読んでいませんよ(^^;)。 ほき内伝って名前さえ、普通は知らないのですから、、、、。 あたしの出身は大阪の阿倍野に近いから、実は信田の森やら安倍清明神社やらは 昔からわりに近くにありました。でも、特にオブジェはないのですよ。隣の王子神社の 方が大きいですしね(^^;)。 関係ないですが、もっと南の阿倍野神社は今でも大好きな場所です、、。
シェヴァイク様 辛口の貴兄にこれだけ評価していただけるとは望外です。確かに火葬はゾンビの敵で 処理に困りますね。 比呂様 「屍の王」は意識しませんでした。牧野さんとは血塗られた赤い糸でつながってるのか しら(笑)。 二日連続のカラオケのため薄いレスで恐縮です。
「怪奇の人」と呼ばれたい……。 >笹川様 >> もっとも、「本格」という言葉だけは大事にする人もまた多いですが(これは「本格」 >> だ、とか「本格」じゃないとか)。これが「ホラー」で言うところの「怪奇」でしょうかね。 正しくその通りだと思います。『モダンホラー・スペシャル』で初めて公に 自己紹介を書くことになったとき、「超自然的恐怖原理主義者」にするか「市 井怪奇の徒」にするか、真剣に悩んだ私としては。
こんにちは>倉阪さま、中島さま、比呂さま。 <中島さん> | 今朝読み終わりました。幻覚クトゥルー小説と聞いてどんなにぶっとんでい |るのかと思っていたら、手堅く仕上がった娯楽編だったので驚きました。 ニフティにも書きましたが、私は京都で、中島さんの目前でこの本を買いました。 あとがきに「予定と違って」という趣旨の下りを見たときは、2人して「いったい、 何が起きたのだろう」と顔を見合わせましたが(失礼ながら)、帰りの新幹線で小 田原あたりで読み終えた時の満足感は中島さんと同じでした。 とはいえ、手堅さに落ちることなく(何という表現)、自虐的な?アナグラム・ マニアの末路や、随所に横溢する映画ネタも時に笑いをこらえながら思いきり楽 しめました。 |どんでん返しの連続も、今回は決まっています。 救いを与えたように見せながら、登場人物と読者をより深い闇へ落とす−−と いうホラーにおけるどんでん返しの王道を行ってますね。 <比呂さん> |死者の復活とか 世界が徐々に、密かに死(あるいは屍)に侵されていく−−というイメージは、 ルチオ・フルチ作品群や「ゾンゲリア」に共通しますが、これをクトゥルー世界に 持ちこんだのは斬新な試みですね。ただ、僭越なことを言えば、火葬の国で、 ラストに向けて救いのない脅威を暗示しようとすれば、もう少し演出が必要だ ったようにも思います(例えば、「ビヨンド」「地獄の門」と、「サンゲリア」に おける生ける死者の性格の違いのように)。 旧支配者とその眷属については、怪獣めいた描写の作品もありますし、個人的に それはそれで好きですが、こういう人間の精神を直接侵すのも、単なる巨大生物で はない神性を明確にしている点で、「神話」らしいと思います。道具立てとしては、 擬似科学よりも妖術めいた儀式の方が好みですが、これは個人の嗜好に過ぎません から、トータルとしては神話ファンとして大変楽しめた作品でした。 表紙や装丁もよかったです。
>中島さまへ >>まるで比呂さん自身のことみたいな(笑)。 あのー(^^;)、あたしはSFオンラインのお手伝いはしてますが、ホラー担当ですから(^^;)。 SFで好きなのって、ディックにスタージョンにリーミィーにレムに、、、、、あ、みんなホラー 作家じゃないか(笑)。こういうヒトですので安心してください (あ、いかん、堺さん、怒らないでね。こっちも仕事はなんとかしてますので(^^;)) >堺さんへ 宣伝ご苦労さまですー。考えてみると、堺さんこそSFとホラーのハイブリッドだよね。 ハードSFのお話をしつつ、吸血鬼小説はあたしより読んでるし。(読書量が端から違うけど) うう、パソ通なれしてしまってるからか、オン書きはどうしてもあせるから、 文章デタラメになるぅ。ちょっと対応を考えますです、、、、反省、、、。
>笹川吉晴 さまへ そうなんですよ。菊地作品には、思い入れは強いですし、自分の居場所を 最終的にホラーだと教えてくれたのも実は氏の作品であったりします。 「エイリアン怪猫伝」は、”怖い”化け猫描写というとんでもない離れ業を やってのけていますし、ナイーブな作品であるけれど、「インベーダーサマー」の 異物の現実への侵食の描写も好きなのですよ。(自分は派手なシーンより、じわっとくる 怖さの方がむしろ菊地氏の美味さを感じます。なんで老婆が振り返るだけでこわいねん、ってね) 最近の短編は、怪奇小説の方向にはっきり向かっていますしね。 しかし、氏の作品には、先にも述べたガジェットとしてのSF、全体構造としての ヒロイック、という部分の方が氏の持ち味ですし、加えて自分の好きなホラーの定義を 考えると、ジャンルとしては「ホラー」ではないのではないか、とか思ってしまうわけ なんです。 ここで、「血」の問題を持ち出すのは、ズルいかなあ、って自己撞着に陥っているのですよ。 あたしも、ガキの頃みたリーのドラキュラ映画には大きく影響を受けていますし。(イングリッド ・ピットの影響の方がつよいんじゃない、とかはいわないでね(^^;)>シェヴァイクさま)
『呪いの町』のハードカバー帯付きを所有していたので、せっせとテキストに落として いたら、まさか東さんに先を越されるとは。折角掲示板に寄与出来る珍しい機会と思っ たのに。(でも、こういうことは書く) は、まさか、私ごときが持っていてはいけない本なのか??
東様 三木卓の推薦文ご教示いただき、どうもありがとうございました。確かに「哀しくて恐ろしい」 というフレーズは、三木卓の作品にも通ずるところがあるように思います。 「ホラー」という言葉は「〜映画」や「〜小説」を付けなくてもいいからポピュラリティを獲得 しやすいというのは、シンプルですが説得力があります。「ホラー」の人なんて言い方もありま すし。 どのジャンルにも用語・訳語の問題はつきものですが、「探偵小説」から「推理小説」を経て「ミ ステリー」で定着したお隣さんには、名前が変わるたびに主流の傾向が変わったり、範囲が拡散 していったりといったことを経験してきたにもかかわらず、割と鷹揚な人が多いようです。「ミ ステリー」ではなく「ミステリ」という表記にこだわる理由が、実は何となくだという人が多かっ たりとか。もっとも、「本格」という言葉だけは大事にする人もまた多いですが(これは「本格」 だ、とか「本格」じゃないとか)。これが「ホラー」で言うところの「怪奇」でしょうかね。 「ミステリー」→「ミステリ」の例にならって、「ホラー」を「ハラァ」とするとか、と書いて みたら余計間が抜けてしまった。
けっこう怖い感じかなと思うんですけどねえ。カタカナだとやっぱり間抜け ですよ。 >東様 >> ちなみに某SS文庫で現在企画進行中の平井呈一作品集のために資料を漁ってい >> たら、 むむっ、これはどういう作品が入っているのでしょう? マニアとしては保 存の利くハードカバーで出して欲しかった気もしますが。 >比呂様 >> 伝奇ロマンについては、個人的には鵺というか、SFにもファンタジーにも >> ホラーにも分類できる独特の分野かな、とも思ってます。 まるで比呂さん自身のことみたいな(笑)。 >> 結局のところ、どんどん伝奇要素が現実化することで、不安をかきたててしまう >> 構造はとれるのですが、だいたいオチのつき方でホラーにはならないのですよね。 >> 結局説明してまううえに、不安が残らんことが多いし(^^;)。 神話や伝説に題材を採っていると、話が進めば進むほど「毎度おなじみの……」 みたいな展開になってしまうんことが多いんですよね。そこを乗り越えて新し いイメージを生み出せるかどうかが、伝奇ロマンの成否の分かれ目ですね。 >> 山田正紀の「神狩り」も伝奇かなあ、とかね。(<これは極端だなあ) おおっ、ついにSFとは訣別ですか?
箱の話、続報 投稿者:東 雅夫 投稿日:09月22日(水)17時27分26秒 cse33-73.tokyo.mbn.or.jp
遠い昔に小生が「ハコハコハコ〜」と騒いでいた京極夏彦論「匣と陰陽師」(な んと50枚近い、小生としては大作の部類/笑)を収録した『京極夏彦の世界』寺 子屋ブックス4(青弓社・本体1600円)が発売されます、いや、もう並んでる のかな!? 小生以外の寄稿者は、永瀬唯、永原孝道、川崎賢子、斎藤環、高遠弘美、鷹城宏、 野崎六助という面々。宗教、心理学、ジェンダー、サイバーパンク等々、多彩な切 り口で京極世界に迫っています。 表紙デザインがちょっとまあナンというかはっはっはーなぜ目玉親父が……なの ですが(笑)、京極ファンには色々と愉しみがいのある一冊ではないかと思います。 発行部数がわりと少なめゆえ、早めにゲットしたほうがいいかも!?
どうも「ホラー」という表記に抵抗のある方が多いようですが、小生はそれほど でもありません。まあ生来ガサツな人間だからかも知れませんが、もともとHOR RORという英語で見慣れていたために、それのカタカナ表記よね、という意識が 強いせいかも。 ちなみに某SS文庫で現在企画進行中の平井呈一作品集のために資料を漁ってい たら、紀田順一郎さんが『推理界』69年8月号に「ホラー愛好家にとって望外の 喜び」なんぞとサラリと書いているのを発見しました。もっとも、同号の特集タイ トルは「怪奇・恐怖小説特集」なんだけど(笑)。 ジャンル名称としての「怪奇小説」や「恐怖小説」と、「ホラー」との根本的違 いは何かというと、要するにいちいち「〜小説」とか「〜映画」とか語尾に付ける 必要がない(笑)、ということだと思うんですね、「SF」とか「ミステリ」とか 「ファンタジー」がそうであるように。 どうでもいいことのように思われるかも知れませんが、名称としての使い回しの 利便性は、その言葉の勢力拡張、ポピュラリティ確立にとって重要な意味をもつは ずです。 あ、それから「エクソシスト」は公開当時「オカルト映画」および「恐怖映画」、 「ローズマリーの赤ちゃん」も「恐怖映画」で、「ホラー映画」という名称は、パ ンフの類には皆無でしたね。
え〜いまやゾンビが常態、ときおり思い出したように人間に戻ることもあるヒガ シです。 三木卓の『呪われた町』の推薦文は「吸血鬼は哀しくて恐ろしい。本来関係ない はずの日本人にも吸血鬼ファンは結構いるようだ。そこへまた一冊、この本が出る。 今度は現代アメリカの町がひとつ、かれらによって亡ぼされる。今、時の枠を外し て吸血鬼はわれわれにすりよって来た。吸血鬼がそうなる理由は、洋の東西を問わ ず、われわれのなかに根深くあるのだ。――日頃かれらに若干の好意を抱いている わたしも、深夜一人でこの作品を読んでいて肌寒くなり、窓を閉めに行った」とい うものです。けっこうツボを押さえているような(笑)。 何故ミキタクが? という件ですが、最初は小生、映画にもなった『震える舌』 (これはまさにキング・テイストな話、全然超自然じゃないけどね)の絡みかいな、 と思ったのですが、これはもっと後年で時期が合わない。77年当時といえば、ち ょうど三木が異界小説の代表作『かれらが走りぬけた日』を「展望」に連載してい たときなので、あるいはそっちと関連しているのかも知れません。 ちなみにキングとミキタクは、私見によれぱ、想像力の類型という点で非常によ く似たところのある作家だと思います。
下の発言、正しくは風間賢治「ホラー小説大全」でした。大変失礼いたしました。
江戸東京自由大学というのをご存知でしょうか? 江戸東京博物館が10月2日から17日まで講演を催します。 5日には種村季弘氏が登場。テーマが「洋の東西怪談比較」ということで こちらにお知らせにあがった次第でございます。 他にも田中優子氏「秋成・鏡花の怪談美学」、服部幸雄氏「歌舞伎の怪談狂言」をはじめ 宮田登氏、小松和彦氏など豪華な顔ぶれが揃っております。 詳しくはこちらのURLへ。 http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/1999/e_event06.htm 私は種村氏の講演へ行く予定です。 もしおいでになるいう方がいらっしゃいましたら、 私のホームページの掲示板へお知らせ下さい。 終了後、お話などできたらと思っております。 話の流れを分断してしまうような書きこみで申し訳ございません。 一般掲示板よりはこちらの話題かと思いましたので…。
フランク・デ・フェリータって、「カリブの悪夢」、「マリオネットの葬送行進曲」、「オード リーローズ」、「ゴルゴタの呪いの教会」ぐらいしか読んだことがいなのてずが、どうやら「十月 祭」という初期作が出版されているのらしいですが、内容も知らないです。風間賢治は「ホラー小 説概容」でデ・フェリータをさして「日米では知名度がいまいち低い」とおっしやられていました が、その割には映画化の率が高いような。 菊地秀行は「古ホテル」や「13ラブソング」などのロマンティックな作品群も好きです。
どちらさまもおひさしぶりです。 ちょと宣伝あります。よろしですか? 小説じゃなくてアメコミなのですが、小学館プロダクションから好評オカルト探偵シリーズ 第2弾「ヘルボーイ 破滅の種子」が拙訳にて刊行されました。 ラヴクラフトを思わせる世界設定、アメリカ版「ゲゲゲの鬼太郎」ともいえる怪人ヒーロー、 そして菊地秀行作品を彷彿とさせるアクションの連続と、ホラーファン必読の内容と (作者じゃないけど)自負しております。 しかも絵が良い! 現在のアメコミ界でも1,2を争うかっこよさ。 今回は、序文に今は亡きロバート・ブロック、帯には水木しげる、小野不由美の推薦文入り。 ぜひともご一読くださいませ。 (できれば、先に出た第1巻「ヘルボーイ チェインド・コフィン」もよろしく)
比呂様 菊地氏の特に初期の作品は、被害者の恐怖や理不尽な感情を描くことが多かったように思います 。例えば『エイリアン怪猫伝』で、バスに乗り合わせた使用人たちが無差別に虐殺されるシーク エンスや、『魔界行U』で「あさま」がゾンビ列車と化すシーンなんかの被害者の絶望と嘆きと かですね。 妖魔に犯される女が諦めて恐怖を受け容れた途端、とてつもない快楽と化すというお馴染みの場 面も、ホラーのマゾヒスティックな快楽をよく表しているように思います。 そういったところに<ホラー>を感じてしまうのですが、“邪道”でしょうか?
ども、比呂です。 こちらも「緑の幻影」読了です。感覚的には、牧野修の「屍の王」と妙に共通した 雰囲気を感じてしまいました。といっても、編集者とか死者の復活とか、そういう 部分でのお話なのですが、、、、。(倉阪さん、ごめんなさい) しかし、最近は朝松氏の幻想クトゥルーナチス史をまとめて読んだこともあり、 個人が不安、破滅、狂気に向かうクトゥルーは久々で嬉しい。大仕掛けも好きだけど 自分の趣味は、そっちですねえ(^^;)。 >倉阪さま、中島さまへ 伝奇ロマンについては、個人的には鵺というか、SFにもファンタジーにも ホラーにも分類できる独特の分野かな、とも思ってます。 結局のところ、どんどん伝奇要素が現実化することで、不安をかきたててしまう 構造はとれるのですが、だいたいオチのつき方でホラーにはならないのですよね。 結局説明してまううえに、不安が残らんことが多いし(^^;)。 昔から、菊地秀行氏や夢枕獏氏の小説はSFなのかホラーなのか、自問自答 しておりまして、けっこう悩ましい(^^;)。山田正紀の「神狩り」も伝奇かなあ、 とかね。(<これは極端だなあ) やっぱり最低限、拭いがたい不安が残らないと自分としてはホラーには分類されえない のですよね。 追伸:オーソドックスに、「ホラーを読む!」巻末の年表にSFと現代史を追記して、 内外を分離したホラー年表がつくりたくて仕方がない(^^;)。いいコンセンサスツールが できそうな気もするのですが、、、、。 (ついでに本邦初訳史は誰かつくってくれないものか、、、)
中島様 >こういう展開なら、主人公の視点だけに絞った方が効果的だったかも。 難しいところですね。主人公視点の長篇は初めてだったのですが、300枚の分量 だったので可能だったかなと思っています(実は200枚で終わりそうな雲行きに なってかなりうろたえたのですが)。 もっと長い作品は主人公視点じゃ無理ですねえ。 明日あさってはミーコとともに外出しますので、たぶんレスが遅れます(>皆様)。
浅羽通明氏はやっぱり外野になるんですか? かつては幻想レビュアーの一 人だったけど。 発言タイトルは一発芸で、深い意味はありません。
>倉阪様 今朝読み終わりました。幻覚クトゥルー小説と聞いてどんなにぶっとんでい るのかと思っていたら、手堅く仕上がった娯楽編だったので驚きました。 分かり易いアナグラム、こういう現実か幻覚か迷わせるような形なら活きま すね。どんでん返しの連続も、今回は決まっています。 ひとつだけ気になったのは、郷土史家が×××る場面だけが浮いて見えたこ とです。こういう展開なら、主人公の視点だけに絞った方が効果的だったかも。 ともあれ、全体的にバランスが取れていて、初心者からマニアまで広い層に アピールできる作品だと思いますよ。 伝奇ロマンについては、理屈が勝つとおっしゃる通りSFっぽいですが、イ メージ優先で暴走するとファンタジーに近づきますね(伝奇ヴァイオレンスも のとか)。で、バランスが取れているとホラー──なんてのは都合が良すぎま すか(笑)。 ラヴクラフトとクトゥルー、SFの三題噺は、もたもたしていますが、ちゃ んと纏めます(笑)。
八尾の猫様、西田様 むろん狂気がメインなんですけど、憑依の含みも持たせていると思います。 詳しくは書けませんが、ちょっとミステリ的な伏線も張ってありますね。 伏線ではないものの、二つの船の名前、クロノメーターなど、かなり細かい芸が見えます。 笹川様 ありがとうございます。「北海道新聞」は近所の図書館にないもので、実は未読なので すが(笑)。
倉阪さま だいぶ以前に女流怪談集の件を問い合わせた、西田です。 そろそろ、ですか。 フェリータ「カリブの悪夢」。これ以前読んでてある映画を思い出しました。 「ゴースト/血のシャワー」、ジョージ・ケネディがナチスの亡霊に憑かれる 話です。物心つく前にTVで観たので詳細は覚えてませんが、「このおっさん 狂ってる」と感じながらズルズル観た記憶があります。 「カリブの悪夢」の船長も何かに憑かれてるんだろうな、と思いながら読み 進めておりましたが、結局はっきりしないまま終わってしまったので、私個人 的には「消化不良」の感がありました。これはこれで面白くグイグイと読ませ てもらいましたが。 って、なんかピントずれちゃってますね。おじゃましました。
日本では松山巌と野崎六助がいるから大丈夫。 なんだけど、SFについては彼らに匹敵する批評家は現在いませんねー。 (野崎氏はSFもフォローしてるけど。) 幻想文学もか? 最良の澁澤龍彦論を外野の浅羽通明に書かれちゃあねえ。 って、これ喧嘩売ってることになるんですか?
デ・フェリータ「カリブの悪夢」は、ずっと「狂人とその狂人によって作り出されたサバイバル状 況に対する恐怖」の物語だと思っていました。デ・フェリータを初めて知ったのも風間賢治「ホ ラー小説読本」の巻末の本のリスト「狂気」のジャンルだったので。映画は見ていません。ご覧に なった方がいらっしゃったら、感想を教えて下さい。
今日ゼミがあることが発覚し、慌てて徹夜でレジュメ作ってました。テーマは「ドラキュラの 変遷」。何でそんなテーマが許されるかというと、指導の先生が仁賀克雄氏なんですねー。 そんなわけでご挨拶が遅れましたが、 倉阪様 僕のところにも『緑の幻影』届きました。どうもありがとうございます。 北海道新聞の夕刊で、七人が持ち回りの書評欄「星取り五番勝負」のミステリーの週を担当して るのですが、前々回は『死の影』、前回(つい一昨昨日のことです)は『田舎の事件』と倉阪さ んには連続登場願ってます。これで『緑の幻影』が期待通りなら次回も登場で、ほとんど常連の ようになってしまいますね。自分でやっていて言うのもなんですが、すごい時代になってしまっ た(いや、倉阪さんがすごいと言うべきか)。 『呪われた町』の件は残念でした。分からないとなると無性に知りたくなります。もしどなたか 持ってる方、あるいはご存知の方いらっしゃったら教えてください(東さんなんかどうなんでし ょうか)。 『エクソシスト』は、分かる範囲ではポスター、チラシの類に「ホラー」という文字はないよう ですね。パンフは実家にあったかなー? むしろ、キャッチフレーズとしての「オカルト」がいつごろまで使われていたのかが気になって きました。多かったですよね。あと「パラサイコ」というのもありましたね。他は「ショック」 あたりでしょうか。 ちなみに『ヘルレイザー』に「サイバーパンク・ショック」と付けたのは、さすがに変でした。
内容なくて恐縮ですがとりあえず今回レスだけ。 倉阪様 率直なご感想有り難うございます。無理にまとめ上げてしまいがちな 癖は自覚しておりますが、どうもその場その場での融通が利かないよう で…(恥)。脳味噌柔らかくして、時間の許す限り参加できるよう努めます。 でも、歴史的価値観の話…かなり難しいです。 緑の幻影はそろそろ出回るのですね。楽しみです。
中島様 >既刊分2冊の惹句「……でもロングセラーだ!」はナイスですね(笑)。 >版元のアイデアですか? もちろんです。私は恥ずかしくてとても言えません(笑)。 考えてみれば、なぜSFの話が出ているかと言えば、ラヴクラフトに端を発してたんです よね。Cthulhu神話と構造が似ている「伝奇ロマン」は私の感覚ではSFなのですが、ど うなんでしょう。
>倉阪様 『緑の幻影』本日届きました。ありがとうございました。早速これから読ませ ていただきます。 既刊分2冊の惹句「……でもロングセラーだ!」はナイスですね(笑)。版 元のアイデアですか?
笹川様 古書展で見かけたのですが、結局見合わせました。したがって手元にありません。 家族がどうのこうのと関係ないことが書いてあったような・・・。 ところで、73年に「エクソシスト」ブームがありましたけど、ポスターやパンフに 「ホラー」は使われていたのでしょうかねえ。 77年の「サスペリア」のパンフには「ホラー」が登場しますけど、初出に「ホラー 映画(恐怖映画)」と注釈がついていたりします。
またやってしまいました、改行忘れ。何度も申し訳ありません。送り直します 中島様 ≫「時代状況との適応度の差」ぐらいの理解でもよろしいのでしょうか? 雑な言葉づかいをしてしまって、申し訳ありません。平たく言ってしまえばその通りです。 ただ、第一次大戦の大量死を経て、原子力の時代が到来した時点でそれ以前の時代との間に断絶、 もしくは変質があるようには思います。これはもちろん評論家モードでの発言ではまったくあり ませんが。 それからキングに関してはおっしゃる通り、モダンホラー・セレクションが始まったのが87年で、 その前年から87年にかけて、扶桑社ミステリー(当時はサンケイ文庫でしたが)から『ナイトシフ ト』『スケルトン・クルー』がバラバラと出て、以後ラッシュが到来という感じですね。それ以 前は75年の『キャリー』以来、10年で5作だったわけですから大ブレイクです。 それに対して映画化作品の方は、85年までに7本が入ってきているわけで、映画界の方が新らし 物好きというのもうなずけます。 倉阪様 『呪われた町』の帯は記憶にありませんでしたが、三木卓とは分かるような分からないような人 選ですね。ご面倒でなかったら、どんなことを書いているのか教えていただけないでしょうか? 『カリブの悪夢』は家にあったかどうかもうろ覚えですが、とりあえず探してみます。
中島様 >近代的な価値観なんぞ相対化してしまえるのが、SFの魅力ではないでしょうか。 確かにラファティなどはそうですが、そんな個別の話をしているとキリがないので 話を戻します。要するに、ポジティヴからネガティヴにSFが劇的に変わったので はなく(ですから例外はたくさんあり)、徐々に旋回してトータルな向きが変わっ たのが70年代なのではないかと考えているわけです。暗いイギリスSF(主観) の黄金時代だし。まあ、そう考えるとホラーとつながるのでとても都合がいいんで すけど(笑)。 えー、実は一連の仮説の力点はミステリにもあったりするので、なおさらわけがわ からなくなっております。またいずれ流れを見て。
の初版ハードカバーの帯には推薦文が寄せられています。 さて、誰が書いているでしょう? 答えは実に意外で三木卓です(笑)。 ところで、とうに品切れですがフランク・デ・フェリータ「カリブの悪夢」をお読みに なった方に質問。あの小説にはスーパーナチュラルな要素は皆無であると言われていま すが、巧妙かつ微妙な仕掛けがあってホラーにもなっていると思うのですが。
>倉阪様 どうも私の方の言葉が足りなかったようです。 倉阪さんの方がSFより視点が上なんです。だけど、SFの視点のさらに下 に近代的な価値観があるのではないかと言いたかったのです。 確かに両者に繋がりはあるので、倉阪さんの視点からだと一緒に見えてしま うかも知れませんけど、厳密にはイコールではないんです。その違いの部分こ そがSFの妙味のはずだし、そこのところが時にはホラーと重なってくる領域 でもあると思うんです。例えば「冷たい方程式」とか「呪われた村」みたいに 安易なヒューマニズムを拒否する作品とか、人類がなすすべもなく滅ぶ終末も のとか。 >笹川様 >>時代状況が<近代>から<現代>へと変化し、ホラーの反<近代>では太刀打 >>ちできなくなったのでSFに取って代わられたのでは、という感じがします。 む、難しい……。<現代>って、解るようで解らないと言うか、捕らえどこ ろがありませんからね(だってまだ終わってないんですから)。「時代状況と の適応度の差」ぐらいの理解でもよろしいのでしょうか? キングの本邦紹介は新潮・集英社文庫でじわじわ浸透して、扶桑社ミステリ ー・文春文庫でブレイクしたという感じでしょうか。キングのブレイクと早川 のモダンホラー・セレクションはほぼ同時期だったように思うんです(←ちゃ んと調べてません)。 映画の方で先に「ホラー」が浸透したのは、やっぱり映画産業の方が新しも の好きというのがあるのではないでしょうか。
すみません! 最近どうも気が抜けてるようで、また改行忘れてしまいました。 送り直すので、下は無視してください。読んでしまった方、ごめんなさい。 中島様 ≫この時代、ホラーは反近代的ジャンルとしての役割をSFに奪われていたとは言えませんか? 時代状況が<近代>から<現代>へと変化し、ホラーの反<近代>では太刀打ちできなくなったのでSFに取って代わられたのでは、という感じがします。 ミステリに関してはあまり詳しくありませんが(って一応探偵小説研究会なのに)、近代的理性信 奉と批判をバランス取ってやっていたから、安定して生き延びてこられたのでは、と大雑把に思い ます。あるいは、近代合理主義の枠内で自己批判しているというか。 ≫「ホラー」はキングより先に映画で広まった印象があるんですけどねえ。 僕もあまり一般的ではなかったようで。キングの本格的紹介は『呪われた町』が文庫になった (83)あたりからと思っていたんですよ。などと言いつつ文庫の裏を見てみたら、「最新恐怖小 説」という惹句になってますね。 なお、82年日本公開の『ポルターガイスト』はチラシ・ポスターの類に「スピルバーグが放つサイ エンス・ホラーの最新作!」と銘打たれてますね。『キャット・ピープル』との併映版ポスターで は「引き裂かれる恐怖! 最新ホラー二大作!」とぶち上げているし、「ホラー」という言葉がキャ ッチフレーズとして通用するようになったのは80年代初頭、映像主導というのは確かなようで。 ただ、そうなると“どうして”、という新たな疑問も涌いてくるような……。 ≫ホラーって「法螺」とか「ほら」(感動詞)とか変な連想がまとわりつくので、どうしても違和 ≫感があります。 「ホ」ときて「ラー」ですからね。口の形なんかもちょっとかっこ悪い。嫌いってわけでもないん ですが。考えてみたら、自分はいつから使っているんだろう?
中島様 >歴史的な流行り廃りを超えた絶対的な真理。 これが揺らいだ(本質的な疑義が呈された)のが20世紀なのですから、私のほうが 視点が一段上だと思っているのですが(笑)。確かに私の用語は不適切な場合が多く て忸怩たるものがあるんですけど・・・。 むろん「絶対的(と思われていた)な真理に対する疑義」なんてものはエンタテイン メントの世界には直接の関係はないのですが、遅れて伝播した部分があるのではない かと仮説を立てています。とても検証できそうにありませんが(笑)。
>倉阪様 確信がないので疑義の提示ばっかりになります。ごめんなさい。 ホラーが近代に対するアンチテーゼというのは納得なんですが、SFが近代 的価値観とべったりだと言ってしまうとSFサイドからの反発があるかも。S F者の意識としては、歴史的な流行り廃りを超えた絶対的な真理に帰依してい るつもりなのでは。もう一段視点が上ですよ、と。近代的な価値観なんぞ相対 化してしまえるのが、SFの魅力ではないでしょうか。 それに50〜60年代ごろのSF映画には、近代に対するアンチテーゼであ るものが多いんです。特に怪獣映画なんかは、もろに近代に対する土俗の反逆 だったりするでしょう? 私は怪獣を通して近代に対する疑問を植え付けられ た口ですので、この頃のホラーの不振が反近代的ジャンルだったためとは考え にくいんですが。この時代、ホラーは反近代的ジャンルとしての役割をSFに 奪われていたとは言えませんか? ミステリについてはまったく知らないのでパス(笑)。 >笹川様 「ホラー」はキングより先に映画で広まった印象があるんですけどねえ。キン グが広く読まれるようになったのって、80年代後半でしょう。そのころには もう定着していなかったですか? 自分が一般的な位置にはいないものだから、 いまひとつ自信がないんですが(笑)。余裕ができたら、私も文献を漁ってみ ます。 >> ともあれ、「ホラー」という言葉に今一つ胡散臭さを感じる人が結構いるのは、その辺のことにも >> 理由があるのだろうかという気はします。 どうも怪奇小説を愛好する人間には、「爺むさい」「偏屈」という傾向があ るように思います(ああ、とうとう書いちゃったよ〜ん。いや、私自身のこと なんですが)。だから基本的にカタカナ言葉は嫌い。しかも、ホラーって「法 螺」とか「ほら」(感動詞)とか変な連想がまとわりつくので、どうしても違 和感があります。 「それいけ!アンパンマン」のホラーマンというキャラクターは、その辺の違 和感を巧みに表現し得ているように思うのですが(いつも「ホラ〜ホラ〜」と 上機嫌に歌い踊りながら現れる)、やなせたかしが怪奇小説愛好家かどうかは 知りません。そういえば、昔のやなせたかしはとことんネガティブな童話ばか り書いていました。
治田様 大変わかりやすいまとめ方ではありましたが、煮詰まった状態でまとめたような印象も あります(笑)。「SFとミステリは近代的ジャンルでホラーはそうではない」などの 歴史的観点からの問題提起もしておりまして、「ネガティヴ」はそのあたりとも関わっ てきます(いろいろ並行しているのでとてもわかりにくいのですが)。とにかく、まれ に結論が出る場合もありますけど、論議の過程でいろいろ派生してくるのが面白いので 途中で参加して下さい。
読んでるだけで精一杯ですが、たまには書いてみたいので…。 中島さんや倉阪さんの議論の要旨の一つ、ホラーとSFの認識の違いの 根底にあるものというのは、次のような感じになるでしょうか? あれこれ考え て自分で理解しやすいようにまとめたつもりだったのですが(余計分かりづ らいという噂も)。 要するに、ホラーとしての認識は、SF的な論理展開に惑わされずに、大 量の「砂利」の中からどこまで純粋に、ホラーの核心たる「宝石の粒」(超自 然的恐怖:ここでは仮にエメラルドに例えてみます)だけを拾い上げること が出来るかという。 ホラーな人寄りの視点から見てみると… 1. そもそもホラーとして書かれた小説ならば、砂利の中にはエメラルドの 粒の含有率が圧倒的に多くて(質の善し悪しはあっても)ともかく大量にとれ る。 2. SFとされていながらもホラーと呼ばれることのあるものになると、SFの 核心(ルビーとします)がエメラルドの他にかなりの量、混ざってくる(作品に よって割合が違う)。その上で、個々人の採集能力によって、うまくエメラル ドだけをつまみ上げられる人(その小説をホラーであると強く感じられる人) と、手先が器用でなく、どうしてもルビーが混ざってしまう人(ホラー派なの だけれど、その小説に関してはルビーが入った分だけ、ホラーの感覚が薄 いと思えてしまう人)に分かれる(感受性の違い)。 SF傾向の人の視点ならば、2.の場合には、エメラルドではなくルビーだけ を集めようとするでしょう(そして場合によっては少量のエメラルドが混じって しまう)。 つまり小説内の最終的なホラーのコア、SFのコアというのは、潜在しては いるのだけれども、少なくとも始めから「まとまった形」でそこに在るわけで はなく、個人個人の手によって(宝石を単離集積させることによって)二次的 に作り上げられ、際だってくるものであり、その集めた宝石の種類の違いに よって、SFともなれば、ホラーともなる。場合によっては両者混合のSFホ ラーとなったりもすると。それが個人個人が小説の中に見出すコアの違い (SFだ、ホラーだ云々)として現れる。 この場合ネガティヴというのはホラー及びSFのガジェットに、エメラルド= 超自然的恐怖を醸成させるために必要とされるもの、漠然とした例えですが 「環境条件」として位置づけられるのではないかと考えたのですが(その違 いがホラーと怪奇の差にも影響?)。 ただ、コアとしてまとめることが出来るだけのエメラルドの質、及び量をあ る程度考えないと、そういう要素があれば何でもかんでもホラーになってし まうのかも。そのあたりは、比呂さんの言っておられる「個々は部品でしか ない」というあたりに引っかかってくるような気もします。 これらの例えは何もSFとホラーに限ったことではないのかも知れないで す。 例えが安直で、しかも分かりづらくて済みません(表現下手です)。認識違 いがあるかどうかも気にかかるところです。あと現実にルビーとエメラルドが 同時産出するかどうかと言ったことは正直知りません。 苦労して考えたつもりなのですが、行き着いた先は結局既に議論された ことを言い換えているだけという気がしてきました(汗) 東様 お礼を言うのを忘れておりました。どうもすみません。 改めて、中島さんに続いてゴシック・ノヴェルとゴシック・ロマンスの違いに ついての説明をどうも有り難うございます。 微妙な違いで名前が異なるの は、説明読んでいても混乱しがちなので助かります。
タイトルだけで読んでみたくなりますね。 ところで比呂さんがおっしゃっているように、確かに「ホラー」というのは、多分にパッケージ的 要素が強い使われ方をしている言葉ですね。 リアルタイムで受けた印象を思い返してみると、キングの作品が本格的に入って来始めて、旧来の 怪奇(恐怖)小説と差別化するために「モダン(・)ホラー」という言葉で表した。それで、かえ って「ホラー」という言葉も定着した、という感じだったと思うのですがどうでしょうか?『ハロ ウィン』や『13日の金曜日』の初期は、まだ「恐怖映画」と呼ばれていたように記憶しています。 “新しさ”を強調するためにカタカナにするというのでは、平井呈一氏も『怪奇小説傑作集』の解 説などで「モダン・ホラー・ストーリー」という言葉を使っていますね。その頃の空気をリアルタ イムで覚えている方は……。さすがにちょっときついですかね? ともあれ、「ホラー」という言葉に今一つ胡散臭さを感じる人が結構いるのは、その辺のことにも 理由があるのだろうかという気はします。 シェヴァイク様、倉阪様、比呂様 確かにフルチは驚くほど理におちないし、イヤーな気持ちに突き落としてくれますね。確信犯なの か“天然”なのか、それともただ単にヘタクソなだけなのか判断し難いところもスリリングです。 ちなみにアルジェントの方は、芸術家ぶってるところ(特に作品外で)が鼻につくので今一つ好感 が持てません(個々の作品には好きなものもあるのですが)。その点フルチは、好感度だけは確実に高いです。
>比呂様 >> サイコさえミステリーに分類してしまう自分の偏屈さに自信ない、というのが >> 一番の理由であったりするのですが、、、。最近酷い自己不信なんす。 そういう貴方のためにこそ、超自然的恐怖原理主義があるのです!(笑) 何しろサイコやSFまがいが混入する理由すら、ホラーの核がスーパーナチ ュラルであることで説明できるのですから。さあ、さっさと入信してしまいま しょう!(笑)。 ホラーがマーケティング用語というのは、日本については当たっていますね。 怪奇では隠者的イメージが強すぎるからホラーで、という感じはあります。海 外の場合、ホラーはマイナーっぽいからモダンホラーで行こう、だったわけで、 ホラーにマーケティング用語的な意味合いはありません。
こんにちは。 今度の幻想文学は「くだん、牛の妖怪(?)特集」だそうですね。 石堂さんから、なにかそのテーマにまつわる文献ご存じないですか? と聞かれたので探したのですが、 Playfair,Guy Lyon "THE FLYING COW : RESEARCH INTO PARANORMAL PHENOMENA IN THE WORLDS' MOST PSYCHIC COUNTRY" (Souvenir Press,London,1975) この本は、「牛」の形をしてあらわれるポルターガイストの研究書 のようです。持ってないので、紹介だけ。
中島様 >英語ではどうなんでしょう? ラヴクラフトは確か horror story と weird >story を併用していたはずです。日本語にすると恐怖小説と怪奇小説になりそ >うですが、厳密に使い分けてはいなかったような。ghost story にしても、幽 >霊が出るものに限られてはいないんですよね? ほんとややこしいです。 ホラー・アンソロジーの四天王はhorror,ghost,terror,supernaturalですが、 厳密に分かれてはいないですね。FontanaとPenguinはhorrorとghostと二つあり ますが(前者はシリーズ)horrorにもゴーストストーリーが入っていたりします。 形容詞になると、uncanny,strange,haunting,creepy,grim,sinister,gruesome 書ききれないほどありますね。 比呂様 ほとんど私と変わらないですね。ただ、「それによって傷を負う人間そのものが描かれ ること」が少し違うような気がします。やはり人間が壊れたり惨殺されたり邪悪なもの に変容したり(以下略)のほうが楽しい(笑)。 いなば様 森村さんはかなり前からの常連レヴュアーです。渋澤に関しては、初期は管理人、次は 森村という感じですか。
法哲学者の森村進さんがよく『幻想文学』に書いておられますが、 古くからこうした活動をなさっておられたんですか?
>倉阪さまへ なんだか、議論の前提みたいなお話ばっかり書いてすいません。 自分でも最近ずっと悩んでるのですよね。ひょっとして自分がこだわり過ぎているのかな、とか。 私自身が怪奇小説に求めているものは、おそらくは超自然の、もしくは人外の存在が でてくる事が一つ、日常的な世界であったり人間の内面であったりといった「現実」が 揺らがせ、侵犯するものが出ることが一つ、そしてそれによって傷を負う人間そのものが 描かれることが一つ、これが全て組み合わされたものが自分にとっての理想です。 侵犯するものが科学に基づいたものでもいいのです。虚構の存在が侵犯さえすれば。 自分にとっては理におちる事よりも、一般人の立脚点である現実が壊れる方が比重が 高いという感覚があります。もちろん壊すためには理におちてはいけないとも思うのですが。 もちろん、ただ怪物がでるだけの映画も好きなんです、自分は(^^;)。 >中島さまへ ということで、自分のこだわりを全面に出すと、なんだか議論にならない気が するのですよね(^^;)。自分の世界になってしまって。 ただ、コンセンサスをとるための定義としては、極論あそこまでありうるか、 という部分もあります。もちろん、自分の主義としては認めたくない、というか、、、 サイコさえミステリーに分類してしまう自分の偏屈さに自信ない、というのが 一番の理由であったりするのですが、、、。最近酷い自己不信なんす。 ホラーという言葉については、マーケティング用語という意識も強くて、強いて 意味を求めたくない、という心理も働いている可能性はあります。その意味で、 みなさんの持っている怪奇小説の定義はお聞きしてみたい、と思います。 >笹川さまへ 「ゾンビ」は本来ホラーでもSFでもどちらの文脈でも評価のしようはありますよね。 でも、本質はホラーでも怪奇でも、どっちでもOKだと思います。というか、自分の好きな SFホラーというジャンルになるかと思います。SFホラーって、実はホラーが主、SFは オマケ、もしくは言い訳ですから(笑)。 ゾンビ映画で、はっきり怪奇要素のみで構成されている名作って、シェヴァイクさんも 書いているフルチ作品が一番いいですね。とにかく希望もなければオチもない。あの 絶望感は、多分他のどんな映画監督も作り得ないと思っています。 「ビヨンド」と「墓地裏の家」と「地獄の門」を一晩でみたときなぞは、朝がきても 無常感と絶望感だけで何も手につかなかったですもん。
>倉阪様、中野様 私も心情的にはホラーより怪奇小説なんですが、怪奇小説というと、戦前の 日本では単なる猟奇小説だったりしますよね。年配で因子の少ない方には、江 戸川乱歩みたいなのだと理解されてしまう可能性もあるかも。もっともそうい う方には、ホラーと言っても何のことやら通じないでしょうが。 英語ではどうなんでしょう? ラヴクラフトは確か horror story と weird story を併用していたはずです。日本語にすると恐怖小説と怪奇小説になりそ うですが、厳密に使い分けてはいなかったような。ghost story にしても、幽 霊が出るものに限られてはいないんですよね? ほんとややこしいです。 >> しかし、Horrorなどと書いて、「君は >> HorrorとTerrorの違ひがわかつて書いてゐるのかね」と云はれたら、それもまた困るな >> あと密かに恐れてゐます。 そんなこと誰も言いませんって(笑)。 >笹川様 うーむ、ホラーの本邦上陸は70年代末の可能性が高いのですか。そうする と、オカルト・ブームに続いてホラーという言葉が入ってきていたような感じ になるのでしょうかね。一旦流れが途切れるのかなと思っていました。 それにしても、『ファンタズム』からもう20年ですか……道理で頭が薄く なるわけだなあ。 >比呂様 50〜60年代というとホラー出版は冬の時代になるわけですが、このころ のホラーっぽいSF映画を見ていると、SFがホラーの果たすべき役割を代位 していたのではないかという考えが浮かんできますね。小説の方はどうなんだ と言いますと、それっぽいSFもあることはあるのにSF的視点から評価する とアホらしいので翻訳されていないような感触もあるのですけど、ぜんぜん検 証できていないので、断定的なことは言えません。 >> あたし自身は超自然が入ってくれないと嫌いなんですが、単純に何者かに対する恐怖(生理的な >> 物も含めて)を主題に描かれていればOKってのを定義にしよう、でもいいと思うのですよね。 >> 幅は思いっきり広くなりますが、最低限のコンセンサスをどこでとる、という部分で。 いや、これはもう少しご自分のお気持ちに忠実になられた方がいいと思いま すよ(笑)。「怖ければホラー」では、「別にミステリでもいいではないか」 ということになってしまいます。つまり、ホラーにこだわる意味がなくなって しまうんですよ。もちろん、ジャンルになど意味はないという視点なら話は別 ですが。 >シェヴァイク様 >> ミステリやパニックものの中で、一部作品が、 >> ホラーあるいはホラー色が強いと見なされる要素は何だろうかと考えると、プロットやキャラク >> ターの異常性、極度の生理的・精神的不快感、それ以前の小説・映像作品と比べた場合の斬新さ >> などが生み出す「ショッカー」としての強度−−などにより、超自然への畏怖に近い印象や感覚 >> が惹起されるかどうか、といったところになるんでしょうか? ええ、現状としてはそうなっていると思うんですよ。 次の段階として、いつ、どうしてそうなっていったのかをもっと詳しく追う 必要がありますね。で、ホラーが誕生する瞬間というのがもしあるのなら見て みたいと思って、ゴシックから読み直してみるかという気持ちになっているん です。ゴシックはホラーの起源ではあるけれど、明らかにホラーとは別物です から。問題は、日本語になっている作品が限られていることなんですが。
>この間抜けな字面のホラーという語は一体いつごろから堂々と世間に現れるようになつ >たのか私も興味があるのですが、何となく1980年代半ばくらゐかなと思つてゐました。 これは東さんの専門でせうが、わかる範囲で書いてみます。62年8月の「ヒッチコック・ マガジン」恐怖小説特集号に「怪談と恐怖小説」といふエツセイが載つてをりまして、こ こでは「ショッカー、テラー、ハラー」に3分類されて居ます。「ホラー」ではないです。 64年に日本初の恐怖文学専門誌「Horror」が創刊されますが、本文では「恐怖小説」 「怪奇小説」「怪談」ですね(現物は持つて居ないのですが)。73年にかの有名な「幻想 と怪奇」が創刊されますと、目次に「ホラー」が出て参ります。ただ、これは「ホラー・ス クリーン散歩」といふ連載コラムで(執筆者は故瀬戸川猛資氏)、小説に関しては「恐怖」 「怪奇」「幻想」と漢字が専らです。以上の例はあまり一般的とは思はれませんが、やはり 映画のはうが小説より早かつたのではないでせうか。 >理に落ちないホラー映画 アルジェントも「理より歪んだ美」で好みですね。フルチはあの妙な哲学趣味も好きです。
「エイリアン」はホラーで、「遊星からの物体X」はSFだと思っている んですが、全く逆に考えている人がいるだろうことは、すぐに想像がつく のであった。
ホラーというと、やはり倉阪さんも大好きなフルオ・フルチの3部作「サンゲリア」「地獄の 門」「ビヨンド」でしょう。一部で酷評されるときの言われかたが「わけがわからん」であるこ とからも分かるように、全く「理に落ちて」いません^^;)。 ロメロ作品よりメイクがグロい−−と賞賛される場合もありますが、真価はそんなところには なくて、あの全編に漂うたとえようもない終末感、絶望感だと思います。
笹川様 古書展で見かけたのですが、結局見合わせました。したがって手元にありません。 家族がどうのこうのと関係ないことが書いてあったような・・・。 ところで、73年に「エクソシスト」ブームがありましたけど、ポスターやパンフに 「ホラー」は使われていたのでしょうかねえ。 77年の「サスペリア」のパンフには「ホラー」が登場しますけど、初出に「ホラー 映画(恐怖映画)」と注釈がついていたりします。
またやってしまいました、改行忘れ。何度も申し訳ありません。送り直します 中島様 ≫「時代状況との適応度の差」ぐらいの理解でもよろしいのでしょうか? 雑な言葉づかいをしてしまって、申し訳ありません。平たく言ってしまえばその通りです。 ただ、第一次大戦の大量死を経て、原子力の時代が到来した時点でそれ以前の時代との間に断絶、 もしくは変質があるようには思います。これはもちろん評論家モードでの発言ではまったくあり ませんが。 それからキングに関してはおっしゃる通り、モダンホラー・セレクションが始まったのが87年で、 その前年から87年にかけて、扶桑社ミステリー(当時はサンケイ文庫でしたが)から『ナイトシフ ト』『スケルトン・クルー』がバラバラと出て、以後ラッシュが到来という感じですね。それ以 前は75年の『キャリー』以来、10年で5作だったわけですから大ブレイクです。 それに対して映画化作品の方は、85年までに7本が入ってきているわけで、映画界の方が新らし 物好きというのもうなずけます。 倉阪様 『呪われた町』の帯は記憶にありませんでしたが、三木卓とは分かるような分からないような人 選ですね。ご面倒でなかったら、どんなことを書いているのか教えていただけないでしょうか? 『カリブの悪夢』は家にあったかどうかもうろ覚えですが、とりあえず探してみます。
中島様 >近代的な価値観なんぞ相対化してしまえるのが、SFの魅力ではないでしょうか。 確かにラファティなどはそうですが、そんな個別の話をしているとキリがないので 話を戻します。要するに、ポジティヴからネガティヴにSFが劇的に変わったので はなく(ですから例外はたくさんあり)、徐々に旋回してトータルな向きが変わっ たのが70年代なのではないかと考えているわけです。暗いイギリスSF(主観) の黄金時代だし。まあ、そう考えるとホラーとつながるのでとても都合がいいんで すけど(笑)。 えー、実は一連の仮説の力点はミステリにもあったりするので、なおさらわけがわ からなくなっております。またいずれ流れを見て。
の初版ハードカバーの帯には推薦文が寄せられています。 さて、誰が書いているでしょう? 答えは実に意外で三木卓です(笑)。 ところで、とうに品切れですがフランク・デ・フェリータ「カリブの悪夢」をお読みに なった方に質問。あの小説にはスーパーナチュラルな要素は皆無であると言われていま すが、巧妙かつ微妙な仕掛けがあってホラーにもなっていると思うのですが。
>倉阪様 どうも私の方の言葉が足りなかったようです。 倉阪さんの方がSFより視点が上なんです。だけど、SFの視点のさらに下 に近代的な価値観があるのではないかと言いたかったのです。 確かに両者に繋がりはあるので、倉阪さんの視点からだと一緒に見えてしま うかも知れませんけど、厳密にはイコールではないんです。その違いの部分こ そがSFの妙味のはずだし、そこのところが時にはホラーと重なってくる領域 でもあると思うんです。例えば「冷たい方程式」とか「呪われた村」みたいに 安易なヒューマニズムを拒否する作品とか、人類がなすすべもなく滅ぶ終末も のとか。 >笹川様 >>時代状況が<近代>から<現代>へと変化し、ホラーの反<近代>では太刀打 >>ちできなくなったのでSFに取って代わられたのでは、という感じがします。 む、難しい……。<現代>って、解るようで解らないと言うか、捕らえどこ ろがありませんからね(だってまだ終わってないんですから)。「時代状況と の適応度の差」ぐらいの理解でもよろしいのでしょうか? キングの本邦紹介は新潮・集英社文庫でじわじわ浸透して、扶桑社ミステリ ー・文春文庫でブレイクしたという感じでしょうか。キングのブレイクと早川 のモダンホラー・セレクションはほぼ同時期だったように思うんです(←ちゃ んと調べてません)。 映画の方で先に「ホラー」が浸透したのは、やっぱり映画産業の方が新しも の好きというのがあるのではないでしょうか。
すみません! 最近どうも気が抜けてるようで、また改行忘れてしまいました。 送り直すので、下は無視してください。読んでしまった方、ごめんなさい。 中島様 ≫この時代、ホラーは反近代的ジャンルとしての役割をSFに奪われていたとは言えませんか? 時代状況が<近代>から<現代>へと変化し、ホラーの反<近代>では太刀打ちできなくなったのでSFに取って代わられたのでは、という感じがします。 ミステリに関してはあまり詳しくありませんが(って一応探偵小説研究会なのに)、近代的理性信 奉と批判をバランス取ってやっていたから、安定して生き延びてこられたのでは、と大雑把に思い ます。あるいは、近代合理主義の枠内で自己批判しているというか。 ≫「ホラー」はキングより先に映画で広まった印象があるんですけどねえ。 僕もあまり一般的ではなかったようで。キングの本格的紹介は『呪われた町』が文庫になった (83)あたりからと思っていたんですよ。などと言いつつ文庫の裏を見てみたら、「最新恐怖小 説」という惹句になってますね。 なお、82年日本公開の『ポルターガイスト』はチラシ・ポスターの類に「スピルバーグが放つサイ エンス・ホラーの最新作!」と銘打たれてますね。『キャット・ピープル』との併映版ポスターで は「引き裂かれる恐怖! 最新ホラー二大作!」とぶち上げているし、「ホラー」という言葉がキャ ッチフレーズとして通用するようになったのは80年代初頭、映像主導というのは確かなようで。 ただ、そうなると“どうして”、という新たな疑問も涌いてくるような……。 ≫ホラーって「法螺」とか「ほら」(感動詞)とか変な連想がまとわりつくので、どうしても違和 ≫感があります。 「ホ」ときて「ラー」ですからね。口の形なんかもちょっとかっこ悪い。嫌いってわけでもないん ですが。考えてみたら、自分はいつから使っているんだろう?
中島様 >歴史的な流行り廃りを超えた絶対的な真理。 これが揺らいだ(本質的な疑義が呈された)のが20世紀なのですから、私のほうが 視点が一段上だと思っているのですが(笑)。確かに私の用語は不適切な場合が多く て忸怩たるものがあるんですけど・・・。 むろん「絶対的(と思われていた)な真理に対する疑義」なんてものはエンタテイン メントの世界には直接の関係はないのですが、遅れて伝播した部分があるのではない かと仮説を立てています。とても検証できそうにありませんが(笑)。
>倉阪様 確信がないので疑義の提示ばっかりになります。ごめんなさい。 ホラーが近代に対するアンチテーゼというのは納得なんですが、SFが近代 的価値観とべったりだと言ってしまうとSFサイドからの反発があるかも。S F者の意識としては、歴史的な流行り廃りを超えた絶対的な真理に帰依してい るつもりなのでは。もう一段視点が上ですよ、と。近代的な価値観なんぞ相対 化してしまえるのが、SFの魅力ではないでしょうか。 それに50〜60年代ごろのSF映画には、近代に対するアンチテーゼであ るものが多いんです。特に怪獣映画なんかは、もろに近代に対する土俗の反逆 だったりするでしょう? 私は怪獣を通して近代に対する疑問を植え付けられ た口ですので、この頃のホラーの不振が反近代的ジャンルだったためとは考え にくいんですが。この時代、ホラーは反近代的ジャンルとしての役割をSFに 奪われていたとは言えませんか? ミステリについてはまったく知らないのでパス(笑)。 >笹川様 「ホラー」はキングより先に映画で広まった印象があるんですけどねえ。キン グが広く読まれるようになったのって、80年代後半でしょう。そのころには もう定着していなかったですか? 自分が一般的な位置にはいないものだから、 いまひとつ自信がないんですが(笑)。余裕ができたら、私も文献を漁ってみ ます。 >> ともあれ、「ホラー」という言葉に今一つ胡散臭さを感じる人が結構いるのは、その辺のことにも >> 理由があるのだろうかという気はします。 どうも怪奇小説を愛好する人間には、「爺むさい」「偏屈」という傾向があ るように思います(ああ、とうとう書いちゃったよ〜ん。いや、私自身のこと なんですが)。だから基本的にカタカナ言葉は嫌い。しかも、ホラーって「法 螺」とか「ほら」(感動詞)とか変な連想がまとわりつくので、どうしても違 和感があります。 「それいけ!アンパンマン」のホラーマンというキャラクターは、その辺の違 和感を巧みに表現し得ているように思うのですが(いつも「ホラ〜ホラ〜」と 上機嫌に歌い踊りながら現れる)、やなせたかしが怪奇小説愛好家かどうかは 知りません。そういえば、昔のやなせたかしはとことんネガティブな童話ばか り書いていました。
治田様 大変わかりやすいまとめ方ではありましたが、煮詰まった状態でまとめたような印象も あります(笑)。「SFとミステリは近代的ジャンルでホラーはそうではない」などの 歴史的観点からの問題提起もしておりまして、「ネガティヴ」はそのあたりとも関わっ てきます(いろいろ並行しているのでとてもわかりにくいのですが)。とにかく、まれ に結論が出る場合もありますけど、論議の過程でいろいろ派生してくるのが面白いので 途中で参加して下さい。
読んでるだけで精一杯ですが、たまには書いてみたいので…。 中島さんや倉阪さんの議論の要旨の一つ、ホラーとSFの認識の違いの 根底にあるものというのは、次のような感じになるでしょうか? あれこれ考え て自分で理解しやすいようにまとめたつもりだったのですが(余計分かりづ らいという噂も)。 要するに、ホラーとしての認識は、SF的な論理展開に惑わされずに、大 量の「砂利」の中からどこまで純粋に、ホラーの核心たる「宝石の粒」(超自 然的恐怖:ここでは仮にエメラルドに例えてみます)だけを拾い上げること が出来るかという。 ホラーな人寄りの視点から見てみると… 1. そもそもホラーとして書かれた小説ならば、砂利の中にはエメラルドの 粒の含有率が圧倒的に多くて(質の善し悪しはあっても)ともかく大量にとれ る。 2. SFとされていながらもホラーと呼ばれることのあるものになると、SFの 核心(ルビーとします)がエメラルドの他にかなりの量、混ざってくる(作品に よって割合が違う)。その上で、個々人の採集能力によって、うまくエメラル ドだけをつまみ上げられる人(その小説をホラーであると強く感じられる人) と、手先が器用でなく、どうしてもルビーが混ざってしまう人(ホラー派なの だけれど、その小説に関してはルビーが入った分だけ、ホラーの感覚が薄 いと思えてしまう人)に分かれる(感受性の違い)。 SF傾向の人の視点ならば、2.の場合には、エメラルドではなくルビーだけ を集めようとするでしょう(そして場合によっては少量のエメラルドが混じって しまう)。 つまり小説内の最終的なホラーのコア、SFのコアというのは、潜在しては いるのだけれども、少なくとも始めから「まとまった形」でそこに在るわけで はなく、個人個人の手によって(宝石を単離集積させることによって)二次的 に作り上げられ、際だってくるものであり、その集めた宝石の種類の違いに よって、SFともなれば、ホラーともなる。場合によっては両者混合のSFホ ラーとなったりもすると。それが個人個人が小説の中に見出すコアの違い (SFだ、ホラーだ云々)として現れる。 この場合ネガティヴというのはホラー及びSFのガジェットに、エメラルド= 超自然的恐怖を醸成させるために必要とされるもの、漠然とした例えですが 「環境条件」として位置づけられるのではないかと考えたのですが(その違 いがホラーと怪奇の差にも影響?)。 ただ、コアとしてまとめることが出来るだけのエメラルドの質、及び量をあ る程度考えないと、そういう要素があれば何でもかんでもホラーになってし まうのかも。そのあたりは、比呂さんの言っておられる「個々は部品でしか ない」というあたりに引っかかってくるような気もします。 これらの例えは何もSFとホラーに限ったことではないのかも知れないで す。 例えが安直で、しかも分かりづらくて済みません(表現下手です)。認識違 いがあるかどうかも気にかかるところです。あと現実にルビーとエメラルドが 同時産出するかどうかと言ったことは正直知りません。 苦労して考えたつもりなのですが、行き着いた先は結局既に議論された ことを言い換えているだけという気がしてきました(汗) 東様 お礼を言うのを忘れておりました。どうもすみません。 改めて、中島さんに続いてゴシック・ノヴェルとゴシック・ロマンスの違いに ついての説明をどうも有り難うございます。 微妙な違いで名前が異なるの は、説明読んでいても混乱しがちなので助かります。
タイトルだけで読んでみたくなりますね。 ところで比呂さんがおっしゃっているように、確かに「ホラー」というのは、多分にパッケージ的 要素が強い使われ方をしている言葉ですね。 リアルタイムで受けた印象を思い返してみると、キングの作品が本格的に入って来始めて、旧来の 怪奇(恐怖)小説と差別化するために「モダン(・)ホラー」という言葉で表した。それで、かえ って「ホラー」という言葉も定着した、という感じだったと思うのですがどうでしょうか?『ハロ ウィン』や『13日の金曜日』の初期は、まだ「恐怖映画」と呼ばれていたように記憶しています。 “新しさ”を強調するためにカタカナにするというのでは、平井呈一氏も『怪奇小説傑作集』の解 説などで「モダン・ホラー・ストーリー」という言葉を使っていますね。その頃の空気をリアルタ イムで覚えている方は……。さすがにちょっときついですかね? ともあれ、「ホラー」という言葉に今一つ胡散臭さを感じる人が結構いるのは、その辺のことにも 理由があるのだろうかという気はします。 シェヴァイク様、倉阪様、比呂様 確かにフルチは驚くほど理におちないし、イヤーな気持ちに突き落としてくれますね。確信犯なの か“天然”なのか、それともただ単にヘタクソなだけなのか判断し難いところもスリリングです。 ちなみにアルジェントの方は、芸術家ぶってるところ(特に作品外で)が鼻につくので今一つ好感 が持てません(個々の作品には好きなものもあるのですが)。その点フルチは、好感度だけは確実に高いです。
>比呂様 >> サイコさえミステリーに分類してしまう自分の偏屈さに自信ない、というのが >> 一番の理由であったりするのですが、、、。最近酷い自己不信なんす。 そういう貴方のためにこそ、超自然的恐怖原理主義があるのです!(笑) 何しろサイコやSFまがいが混入する理由すら、ホラーの核がスーパーナチ ュラルであることで説明できるのですから。さあ、さっさと入信してしまいま しょう!(笑)。 ホラーがマーケティング用語というのは、日本については当たっていますね。 怪奇では隠者的イメージが強すぎるからホラーで、という感じはあります。海 外の場合、ホラーはマイナーっぽいからモダンホラーで行こう、だったわけで、 ホラーにマーケティング用語的な意味合いはありません。
こんにちは。 今度の幻想文学は「くだん、牛の妖怪(?)特集」だそうですね。 石堂さんから、なにかそのテーマにまつわる文献ご存じないですか? と聞かれたので探したのですが、 Playfair,Guy Lyon "THE FLYING COW : RESEARCH INTO PARANORMAL PHENOMENA IN THE WORLDS' MOST PSYCHIC COUNTRY" (Souvenir Press,London,1975) この本は、「牛」の形をしてあらわれるポルターガイストの研究書 のようです。持ってないので、紹介だけ。
中島様 >英語ではどうなんでしょう? ラヴクラフトは確か horror story と weird >story を併用していたはずです。日本語にすると恐怖小説と怪奇小説になりそ >うですが、厳密に使い分けてはいなかったような。ghost story にしても、幽 >霊が出るものに限られてはいないんですよね? ほんとややこしいです。 ホラー・アンソロジーの四天王はhorror,ghost,terror,supernaturalですが、 厳密に分かれてはいないですね。FontanaとPenguinはhorrorとghostと二つあり ますが(前者はシリーズ)horrorにもゴーストストーリーが入っていたりします。 形容詞になると、uncanny,strange,haunting,creepy,grim,sinister,gruesome 書ききれないほどありますね。 比呂様 ほとんど私と変わらないですね。ただ、「それによって傷を負う人間そのものが描かれ ること」が少し違うような気がします。やはり人間が壊れたり惨殺されたり邪悪なもの に変容したり(以下略)のほうが楽しい(笑)。 いなば様 森村さんはかなり前からの常連レヴュアーです。渋澤に関しては、初期は管理人、次は 森村という感じですか。
法哲学者の森村進さんがよく『幻想文学』に書いておられますが、 古くからこうした活動をなさっておられたんですか?
>倉阪さまへ なんだか、議論の前提みたいなお話ばっかり書いてすいません。 自分でも最近ずっと悩んでるのですよね。ひょっとして自分がこだわり過ぎているのかな、とか。 私自身が怪奇小説に求めているものは、おそらくは超自然の、もしくは人外の存在が でてくる事が一つ、日常的な世界であったり人間の内面であったりといった「現実」が 揺らがせ、侵犯するものが出ることが一つ、そしてそれによって傷を負う人間そのものが 描かれることが一つ、これが全て組み合わされたものが自分にとっての理想です。 侵犯するものが科学に基づいたものでもいいのです。虚構の存在が侵犯さえすれば。 自分にとっては理におちる事よりも、一般人の立脚点である現実が壊れる方が比重が 高いという感覚があります。もちろん壊すためには理におちてはいけないとも思うのですが。 もちろん、ただ怪物がでるだけの映画も好きなんです、自分は(^^;)。 >中島さまへ ということで、自分のこだわりを全面に出すと、なんだか議論にならない気が するのですよね(^^;)。自分の世界になってしまって。 ただ、コンセンサスをとるための定義としては、極論あそこまでありうるか、 という部分もあります。もちろん、自分の主義としては認めたくない、というか、、、 サイコさえミステリーに分類してしまう自分の偏屈さに自信ない、というのが 一番の理由であったりするのですが、、、。最近酷い自己不信なんす。 ホラーという言葉については、マーケティング用語という意識も強くて、強いて 意味を求めたくない、という心理も働いている可能性はあります。その意味で、 みなさんの持っている怪奇小説の定義はお聞きしてみたい、と思います。 >笹川さまへ 「ゾンビ」は本来ホラーでもSFでもどちらの文脈でも評価のしようはありますよね。 でも、本質はホラーでも怪奇でも、どっちでもOKだと思います。というか、自分の好きな SFホラーというジャンルになるかと思います。SFホラーって、実はホラーが主、SFは オマケ、もしくは言い訳ですから(笑)。 ゾンビ映画で、はっきり怪奇要素のみで構成されている名作って、シェヴァイクさんも 書いているフルチ作品が一番いいですね。とにかく希望もなければオチもない。あの 絶望感は、多分他のどんな映画監督も作り得ないと思っています。 「ビヨンド」と「墓地裏の家」と「地獄の門」を一晩でみたときなぞは、朝がきても 無常感と絶望感だけで何も手につかなかったですもん。
>倉阪様、中野様 私も心情的にはホラーより怪奇小説なんですが、怪奇小説というと、戦前の 日本では単なる猟奇小説だったりしますよね。年配で因子の少ない方には、江 戸川乱歩みたいなのだと理解されてしまう可能性もあるかも。もっともそうい う方には、ホラーと言っても何のことやら通じないでしょうが。 英語ではどうなんでしょう? ラヴクラフトは確か horror story と weird story を併用していたはずです。日本語にすると恐怖小説と怪奇小説になりそ うですが、厳密に使い分けてはいなかったような。ghost story にしても、幽 霊が出るものに限られてはいないんですよね? ほんとややこしいです。 >> しかし、Horrorなどと書いて、「君は >> HorrorとTerrorの違ひがわかつて書いてゐるのかね」と云はれたら、それもまた困るな >> あと密かに恐れてゐます。 そんなこと誰も言いませんって(笑)。 >笹川様 うーむ、ホラーの本邦上陸は70年代末の可能性が高いのですか。そうする と、オカルト・ブームに続いてホラーという言葉が入ってきていたような感じ になるのでしょうかね。一旦流れが途切れるのかなと思っていました。 それにしても、『ファンタズム』からもう20年ですか……道理で頭が薄く なるわけだなあ。 >比呂様 50〜60年代というとホラー出版は冬の時代になるわけですが、このころ のホラーっぽいSF映画を見ていると、SFがホラーの果たすべき役割を代位 していたのではないかという考えが浮かんできますね。小説の方はどうなんだ と言いますと、それっぽいSFもあることはあるのにSF的視点から評価する とアホらしいので翻訳されていないような感触もあるのですけど、ぜんぜん検 証できていないので、断定的なことは言えません。 >> あたし自身は超自然が入ってくれないと嫌いなんですが、単純に何者かに対する恐怖(生理的な >> 物も含めて)を主題に描かれていればOKってのを定義にしよう、でもいいと思うのですよね。 >> 幅は思いっきり広くなりますが、最低限のコンセンサスをどこでとる、という部分で。 いや、これはもう少しご自分のお気持ちに忠実になられた方がいいと思いま すよ(笑)。「怖ければホラー」では、「別にミステリでもいいではないか」 ということになってしまいます。つまり、ホラーにこだわる意味がなくなって しまうんですよ。もちろん、ジャンルになど意味はないという視点なら話は別 ですが。 >シェヴァイク様 >> ミステリやパニックものの中で、一部作品が、 >> ホラーあるいはホラー色が強いと見なされる要素は何だろうかと考えると、プロットやキャラク >> ターの異常性、極度の生理的・精神的不快感、それ以前の小説・映像作品と比べた場合の斬新さ >> などが生み出す「ショッカー」としての強度−−などにより、超自然への畏怖に近い印象や感覚 >> が惹起されるかどうか、といったところになるんでしょうか? ええ、現状としてはそうなっていると思うんですよ。 次の段階として、いつ、どうしてそうなっていったのかをもっと詳しく追う 必要がありますね。で、ホラーが誕生する瞬間というのがもしあるのなら見て みたいと思って、ゴシックから読み直してみるかという気持ちになっているん です。ゴシックはホラーの起源ではあるけれど、明らかにホラーとは別物です から。問題は、日本語になっている作品が限られていることなんですが。
>この間抜けな字面のホラーという語は一体いつごろから堂々と世間に現れるようになつ >たのか私も興味があるのですが、何となく1980年代半ばくらゐかなと思つてゐました。 これは東さんの専門でせうが、わかる範囲で書いてみます。62年8月の「ヒッチコック・ マガジン」恐怖小説特集号に「怪談と恐怖小説」といふエツセイが載つてをりまして、こ こでは「ショッカー、テラー、ハラー」に3分類されて居ます。「ホラー」ではないです。 64年に日本初の恐怖文学専門誌「Horror」が創刊されますが、本文では「恐怖小説」 「怪奇小説」「怪談」ですね(現物は持つて居ないのですが)。73年にかの有名な「幻想 と怪奇」が創刊されますと、目次に「ホラー」が出て参ります。ただ、これは「ホラー・ス クリーン散歩」といふ連載コラムで(執筆者は故瀬戸川猛資氏)、小説に関しては「恐怖」 「怪奇」「幻想」と漢字が専らです。以上の例はあまり一般的とは思はれませんが、やはり 映画のはうが小説より早かつたのではないでせうか。 >理に落ちないホラー映画 アルジェントも「理より歪んだ美」で好みですね。フルチはあの妙な哲学趣味も好きです。
「エイリアン」はホラーで、「遊星からの物体X」はSFだと思っている んですが、全く逆に考えている人がいるだろうことは、すぐに想像がつく のであった。
ホラーというと、やはり倉阪さんも大好きなフルオ・フルチの3部作「サンゲリア」「地獄の 門」「ビヨンド」でしょう。一部で酷評されるときの言われかたが「わけがわからん」であるこ とからも分かるように、全く「理に落ちて」いません^^;)。 ロメロ作品よりメイクがグロい−−と賞賛される場合もありますが、真価はそんなところには なくて、あの全編に漂うたとえようもない終末感、絶望感だと思います。
秋田書店が子供向けに出している『怪奇大全科』という怪奇映画をスチル写真たっぷりに紹介 している好著があるんですが(値段は高くても、これに遠く及ばないホラー映画ガイドはいくら もあります)、これには『ポセイドンアドベンチャー』まで載ってまして、「怖けりゃとにかく ホラー(という言葉は使ってませんが)だろ」という最も大雑把な見解の見本のような本ではあ あります^^;)。 中島さんの意見になるほどと思ったのですが、ミステリやパニックものの中で、一部作品が、 ホラーあるいはホラー色が強いと見なされる要素は何だろうかと考えると、プロットやキャラク ターの異常性、極度の生理的・精神的不快感、それ以前の小説・映像作品と比べた場合の斬新さ などが生み出す「ショッカー」としての強度−−などにより、超自然への畏怖に近い印象や感覚 が惹起されるかどうか、といったところになるんでしょうか? 「黒い家」などは、そういう意味ではホラーでしょうし、動物パニックものに出てくる動物も、 演出や設定によってはほとんど怪獣になりますから。
倉阪さん: >「怪奇小説とホラーはどう違ふか」といふさらに難解な問題が絡んでくるんですね(笑)。 >上記のSFは「怪奇小説ではないけれどもホラー」なのですが、個人的には。 さうではないかとは恐れてゐました。頭の廻転が遅い私は困つてしまひます。怪奇小説も ホラーも英語ではHorrorですよね。難しいので今後ここではHorrorと書かうかなと思ひも します。ファンタジーもFantasyと使ひ方が異なつてゐる部分があつて、私はよく人と 話がうまく噛みあはなくて困ることがあります。しかし、Horrorなどと書いて、「君は HorrorとTerrorの違ひがわかつて書いてゐるのかね」と云はれたら、それもまた困るな あと密かに恐れてゐます。 この間抜けな字面のホラーという語は一体いつごろから堂々と世間に現れるようになつ たのか私も興味があるのですが、何となく1980年代半ばくらゐかなと思つてゐました。
笹川様 >特に「怪奇小説」の範疇が人によってかなり違いそうで。 まず「幽霊」の人と「怪物」の人とは微妙に違うような気がします(笑)。 >例えばロメロの『ゾンビ』(二作目です)なんかは<ホラー>でOKでしょうか? >あの説明の無さは充分ホラーだと思うのですが、 私はOKだと思います。そう言えば、前半に脈絡なく鰐が出てきたような・・・あれは シュールだったなあ。
というわけでここ数日の分をまとめて読んだのですが、 倉坂様 「怪奇小説とホラーの違い」というのは厄介な問題ですね。特に「怪奇小説」の範疇が人によって かなり違いそうで。しかし皆でいろいろ言い合っているうち、自分では思いもつかなかったような 考えが出てくるので面白いのですが。 そんなわけで 皆様 同じようなことを前にも言ったような気がしますが、例えばロメロの『ゾンビ』(二作目です)な んかは<ホラー>でOKでしょうか? あの説明の無さは充分ホラーだと思うのですが、タッチは 破滅SFのそれのようでもあり……(ということを昔言ったら、SFファンの友人にずいぶん怒ら れたなあ) 中島様 仕事の合間に(というかさぼって)、「ホラー」という言葉が一般的になったのはいつごろからか を何となく見ていました。ユニヴァーサル映画の名場面集である『ホラー・ワールド』の日本公開 が81年なので、そのあたりをめどに考えていたのですが、今まで見つけた中では79年の『ファンタ ズム』のチラシの惹句に「全米の劇場をホラー・スタジアムと化して大ヒット!」というのが、一 番古いです。『ロッキー・ホラー・ショー』は考えに入れないでもいいですよね。 文章の方では、加納一郎氏が78年の『推理・SF映画史』の中で使っていました。「怪奇」の方が 多かったですけど。ただ、この本が「一般的」かどうかという疑問は残りますね。
松本様 ううっ、ベイリーは気になってるんだけど未読なんですよ。 やはりホラーは中島さんのように「現実を侵犯する」を強調するのが妥当でしょうね。 それと、近代的ジャンルであるSFをネガティヴに掘るとホラーが突出する・・・って、 いま不意に浮かんだのですが。 比呂様 >個々のアイデアや世界やガジェットがSFでもホラーでも、それは部品でしかないです >よね。 これは重要なところですよね。べつに名探偵が出てきてもミステリじゃなかったり、い ろいろあります。 >ディックにSFのラベルがつくのは、初期のアイデアストーリーのせいだと思います。 これも重要な部分を含んでいると思います。「ホラーは短篇に限る」とよく言われますが、 一歩間違うとアイデアストーリーになって(理に落ちて)しまいます。意識レベルの「ア イデア」に力点があるのがSF、もっと無意識層に訴えるのがホラー・・・という分類も 可能でしょう。
くだん小説、出してみましたが……あかん、上手くかけない……。 自分の筆力のなさを東さんに曝しているだけのような気もする……。 っと、気を取り直しまして。 ホラーSFの話です。 倉阪さんに呪われている僕にとっては倉阪さんの言葉はすごく刺激的ですね。 先日読んだバリントン・J・ベイリー「カエアンの聖衣」というのがすごくホ ラー的な恐ろしさを感じさせる小説でして、タイムリーなネタだったわけです。 これは「衣装」がテーマになってる小説なんですけど、この衣装がじつにスー パーナチュラル。怪異を起こすのです。それにいろいろ理由は付けられているん ですが、作品内での説得力に欠けていて、その説明を超えた超自然的な怖さが感 じされる作品で、とてもおもしろかったのですね。 で、SFホラーなんですが、この「理由付けはされているのだが、それが実際の 怪異を説明できているようにはまったく見えない。怪異が説明を凌駕している」 ので、僕はホラーやと感じたみたいです。こういうのってどうでしょうか。
ホラーに関するイデアがSFやミステリーとも境界話になると困りますよね(^^;)。 一番困るのが、ホラーの世界をSFの小道具を使って作る、本来SFの作品の構成要素として 恐怖を使う、その他、クロスする部分は多いですよね。(最近はミステリーまでこれを するので、なんつーか、困りますよね(^^;)、面白い作品も多いし(^^;)) もちろん、こういう場合は主題と道具、という切り分けができますが、(ニューウェイブを 除く)SF作品は自然科学、人文科学を問わず、科学が切り口にはなるものが基本のはず。 (それが擬似科学であってもね。だから「大魔王作戦」なんかがSFとして成立すると思うわけ です。その論法なら「ドラキュラ紀元」も架空戦記同様にSFだったりするのです) 問題は、1960年代のSFホラー映画で育ってきた今30歳半ば過ぎの世代あたりは、どっちも 好きで、使えてしまうのですよね。キングなんかも同様だと思います。 あたしは、自分のことをSFとホラーのコウモリと自称しているわけですが、そんなこと 言わずとも、みんな知識としては持っているわけで、使おうと思えば使える。 そこで、じゃあこの作品の本質は?、といわれたときに初めてイデア論がでてくるのですよね。 個々のアイデアや世界やガジェットがSFでもホラーでも、それは部品でしかないですよね。 個々は個々で評価すればいいじゃないかと思うわけです。 ホラー:恐怖or畏怖という単語をどう定義するかでかなり議論はかわります。 あたし自身は超自然が入ってくれないと嫌いなんですが、単純に何者かに対する恐怖(生理的な 物も含めて)を主題に描かれていればOKってのを定義にしよう、でもいいと思うのですよね。 幅は思いっきり広くなりますが、最低限のコンセンサスをどこでとる、という部分で。 倉阪さんのおっしゃる「ソラリス」はホラー、というのは納得いきます。もちろん、SFの 文法でも評価できるし、今まではそこでのみ評価されていた印象あ強いわけで、それをホラーの 文法で読みなおす、という作業は面白い。(この辺はSFのひとと話があわない、という部分 ではないかと想像してます。あたしはSF好きの友人に、『「呪われた町」なんて全部絵空事 で怖くもなんともないです』と言われて絶句した覚えがあります(^^;)) 以下、脱線。 「高い城の男」含め、中期から末期のディックはあたし的には、SFではないですねえ。ディック にSFのラベルがつくのは、初期のアイデアストーリーのせいだと思います。ヴォネガットもそう。 脱線そのに あたしには、1950〜60年代くらいのSFホラー映画ってのが、自分の原点のひとつという ところがあります。SFのガジェット使って、内容は怪奇映画っていうやつ。クズも多い(^^;)。 クォーターマス博士の勇姿やら、吸血鬼の惑星やら、金星カニやら人食いアメーバやら。 この辺に自分がコウモリといって憚らない原因があるように思います(^^;) まあ、これが昇華して、「エイリアン」という名作を生むわけですが、、、、
中島様 >身も蓋もなく結論を先に言ってしまうと、要するにSFとホラーには重なり合ってい >る領域があって、どっちとも言える作品群があるというだけの話だと思うんですが。 確かにそうですね。SFがネガティヴなヴィジョンを描くようになって、重なる領域が とみに広がったという部分もあるかと思います。 ちなみに、ホラーも怪奇小説も基本的にはネガティヴなんですが、怪奇小説はよりネガ ティヴで隠者的とでも説明すればいいでしょうか(またゴーストストーリーを基準に考 えているような気もするが)。 三枝様 恐怖が発生するメカニズムはもっと瞬間的なものでしょう。 SFを「科学的に原因を説明する物語」と規定するのなら重なる領域はないはずです。
身も蓋もなく結論を先に言ってしまうと、要するにSFとホラーには重なり 合っている領域があって、どっちとも言える作品群があるというだけの話だと 思うんですが(ミステリとの国境地帯であるサイコ地方と同じ)。 特にマッドサイエンティストや侵略、怪物テーマといった現実への密着度の 高いSFで、科学的なアイデアが申し訳程度になっており、恐怖に主眼が置か れているような作品は、ホラーと大して違わない感じがするんですよね。 『盗まれた街』は原作のラストにはSF的な感興がありますが、映画のラスト はまったくホラーのような感じを受けます。星新一の『夢魔の標的』なんかも、 ホラーと呼んでも何にも差し障りがないような気がします。ジョン・ウィンダ ムはモダンホラーへの影響を考えるとホラー史的に重要な作家で、中でも『呪 われた村』はいちばんホラー寄りですね。しかし、書いている本人はSFのつ もりだったでしょうし、あの理詰めの恐怖はやっぱりSFっぽい。SFとして 読んでもホラーとして読んでも傑作ですね。 ディックの崩壊感覚はホラーにも応用できるもので、私はこれからホラーを 書こうという方にはホラーの核の部分では新味のないクーンツなんかよりもデ ィックを読んで欲しいものだと思っているぐらいですが(クーンツ派の皆様、 ご容赦を)、彼の作品そのものはSFだと私は思います。舞台設定が絵に描い たようなSF世界なので、ホラーとして読みにくいんです。「現実への侵犯」 の要素が薄まるというか。 『異次元を覗く家』と『闇の聖母』は、たまたまハヤカワSF文庫に入ってい るだけで、だれもSFとは思っていないのでは? 創元推理文庫なら帆船マー クで出したことでしょう。
「幽霊のせいであった」というのは、原因の解明ですよね。 「それは呪いのビデオのせいであった」(←使い古されたネタ)とか。 でも、心情的には納得いかない。 その時、理解しがたい異次元のものと接触したことによる恐怖が発生す る。それゆえSF(科学的に原因を説明する物語)もホラーとなりえるという 解釈かと思いましたが。
>ジャンルの境界には殆ど関心がないのですが、倉阪さんのディックの崩壊感覚、 >『幼年期の終り』『盗まれた街』、『火星年代記』、『ソラリス』などがホラー >だといふ話は私にはさつぱり理解できないのです。怖いとはいつても超自然的畏 >怖は感じられないので、私にとつての怪奇小説の領域と重なるといふことは思ひ >もよらないことでした。 うーん、これには「怪奇小説とホラーはどう違ふか」といふさらに難解な問題が絡 んでくるんですね(笑)。上記のSFは「怪奇小説ではないけれどもホラー」なの ですが、個人的には。 >「SFとホラーの境界については、決してSFから見ている人と話があうことはない」 >やうなので(私もさう思ふ) ただ、話があはずとも(コンセンサスは得られずとも)違ひを確認できるのは有意義だと 個人的には考へます。「論争」は嫌ひなのですが、さういつた「論議」は刺激になるので 好きです。 三枝様 原因がわかっていれば、その時点で「理に落ちている」と思いますが。
「原因はわかっているんだけれど、理解しがたい。心情的に納得いかない」 ってのは、理におちない、すなわちホラーなんでしょうかね。
日替わりでシビアな締切日が到来するという、かつてない事態に這々の体でおり まするゆえ、ごく手短かに。 「くだん」関連公募の締切、そんなに厳密なものではないですが、一応公平を期す る意味で、15日の日付が変わるまでに送信されていれば有効、ということに致し ます。 万一、間に合わなかった場合も、諦めないで御投稿ください。締切破りのハンデ は付きますが、ちゃんと拝見させていただきます。>深川様&Others
ジャンルの境界には殆ど関心がないのですが、倉阪さんのディックの崩壊感覚、『幼年期の終り』 『盗まれた街』、『火星年代記』、『ソラリス』などがホラーだといふ話は私にはさつぱり理解で きないのです。怖いとはいつても超自然的畏怖は感じられないので、私にとつての怪奇小説の領域 と重なるといふことは思ひもよらないことでした。石堂さんの「なぜならSFが好きな人は怪奇的 な側面のあるSFをSFだと感じるからです。…… 恐怖が、SF的設定においてしか発現しない としたら、SF読みにはSF以外ではないと感じられると思います。」といふことなのでせうか。 となると私がSF読みだといふことなるのでせうね(実はそれがちよつと嬉かつたりします)。 「SFとホラーの境界については、決してSFから見ている人と話があうことはない」やうなので (私もさう思ふ)深くこの話題で語りあふつもりはないのですが。とにかく不思議な驚きを感じて ゐます。
松本様 追加です。「幼年期の終り」「盗まれた街」・・・未読のSFにもたくさんあるんだろうな。 SF・ホラー・ファンタジー(単に幻想小説でいいのですが)ならアンナ・カヴァン「氷」 でしょうか。絶版だけど。
深川様 ちょっと聞いていないのですが、今週末には大書店に並ぶと思います。 松本様 ディックの崩壊感覚はだいたいホラーでしょう(「高い城の男」はSFだよなあ)。 あとSFにパッケージされている「呪われた村」「異次元を覗く家」「闇の聖母」 などいろいろありますね。ハードSFと言われているフレッド・ホイル「10月 1日では遅すぎる」も私の感覚ではホラーだったのだが・・・。 それから、紙一重でホラーになるSFもたくさんあるでしょう。「GOD」に寄稿 した「茜村より」は、実はラファティ「九百人のお祖母さん」にインスパイアされ た作品だったりします。
くだん小説って明日中で宜しいんですよね? 史実とのすりあわせを考えてたら 時間がなくなってしまった…… >倉阪様 見本が届いたと言うことは、「緑の幻影」今月うちに出ると判断して 宜しいのでしょうか? 出版芸術社は小書店では発売前後の入手が難しい出版社 なので、今月中でしたら早めに根回しをしないと。 「火星年代記」は私もホラーだと思っていました。滅びゆく都市の描写なんかもう。 そのうち読み直したいです。
石堂藍さん: > 松本さん、「新本格」という言葉をここで使うとさらに事態は紛糾するのでは? ああ、そうでしたね。 僕としては「新本格」をふまえずに「島田理論」は語れない、と勝手に思ってま したんでちょっと説明不足、というか不用意でしたね。すいません。 さて、 >いずれ、「SFと言われてはいるが、これはホラーだ!」というのをやってみてください。 僕はこれが気になります。 いずれといわず、今すぐどなたかやってほしいネタです(笑)。
>倉阪様 おや、続けられるのですか? 私は助かりますが……。 ある程度以上つっこんだ話になると、知識がないのでどうしても拝見するだ けになってしまいます。
>石堂様 >> とにかく、本格ミステリ理論 >> の話はやめませんか? 誤解が誤解を生むだけという気がします。そして、業界に関わっている人間 >> にとってはたいへん危険な地雷原では? 慎重になってしかるべきところではないでしょうか。 私はほんとにぜんぜん何も知らないんですが、どうもややこしい事情がある ようですね。素直にご忠告に従っておきます。 >松本様 もしよろしければ、今度の京都のオフ会でレクチャーしてください。
石堂様 >とにかく、本格ミステリ理論の話はやめませんか? 誤解が誤解を生むだけという >気がします。そして、業界に関わっている人間にとってはたいへん危険な地雷原で >は? 慎重になってしかるべきところではないでしょうか。 な、なぜ(笑)。ただイデアな話がしたいだけなのに・・・。 島田理論の話はうまくすると近代および20世紀小説論にも発展すると思うのですが。 >なぜならSFが好きな人は怪奇的な側面のあるSFをSFだと感じるからです。 感覚的にはわかるような気がします。私も「理屈それ自体(の整合性)」はわりと どうでもよくて、「理の摩擦によって生じる電波」めいたものに反応しますね。 >いずれ、「SFと言われてはいるが、これはホラーだ!」というのをやってみて >ください。どれほど純ホラーの人と自分の感覚が違うのか興味あります。 これはSFセミナーでやりました。「ソラリス」と「火星年代記」はホラーとか、 絶対ホラーにならないのは「夏への扉」とか(笑)。 松本様 >ただ、歌野晶午などはいまだに島田理論を旨い形で取り込んでいる作家として認め >てもよいし、美しい形で完成されたら傑作が生まれる可能性が高い理論ではあると >思います(「斜め屋敷」とかですか)。 同感です。筆力にはセンスで勝負というところでしょうか。 >ミステリって制約があればあるほど美しさが増すと思うので、「ほんの一部 >しか拾えない」だろうと、そこで勝負するっていうやりかたはアリでしょう。 これはやはりスタンスが違いますね。制約(コード)を破壊する意志とコード 自体の力とのせめぎあい(緊張関係)によって生じるいとも危うい世界に本格 ミステリの美があるのではないかとぼんやりと考えています。 >議論の問題 ミステリを「外」から見る視点がないと本質的な議論にはならないような気も しますね。
倉阪様・中島様 個人的にはここで語られてきたことの内容はおおよそ把握できました。なかなかおもしろかったです。 ジャンルの定義というのは決着のつかない問題で、どれが正しいというものではなく、さまざまな見 解があるものだと思います。読書環境の差によって個人でずれがあるでしょう。納得するのに便利、と いうことはあっても、絶対的なものはないと思います。 例えば、鬼一郎が引いた本格ミステリにおける島田理論はあくまで島田さんのもので、それは普遍的 絶対的なものでは全然ないわけです。(それにただのミステリではなくて、「本格」ミステリです、中 島さん、そこのところをぶっとばしてしまうとすごく違う話になってしまいます。それから松本さん、 「新本格」という言葉をここで使うとさらに事態は紛糾するのでは?)とにかく、本格ミステリ理論 の話はやめませんか? 誤解が誤解を生むだけという気がします。そして、業界に関わっている人間 にとってはたいへん危険な地雷原では? 慎重になってしかるべきところではないでしょうか。 ソラリスをめぐっては、鬼一郎に反論したSFの人が悪いですね。理論的だからSFなんじゃなくて、 SF的な世界でしか描けないことを描いているからSFなのです。本当に理論的なSFは、SFの中で も案外少数派です。(SFマニアが見たら怒るだろうなあ……) ともかく、SFとホラーの境界については、決してSFから見ている人と話があうことはないでしょ う。 なぜならSFが好きな人は怪奇的な側面のあるSFをSFだと感じるからです。私にとってソラリス はSFです。 恐怖が、SF的設定においてしか発現しないとしたら、SF読みにはSF以外ではないと感じられる と思います。 いずれ、「SFと言われてはいるが、これはホラーだ!」というのをやってみてください。どれほど 純ホラーの人と自分の感覚が違うのか興味あります。(それとも、今は「これはホラーと言われている が、本当はSFだ」というのが主流ですかね?)どちらにせよ、かなり違うのだろうなあ、とは思いま すが。 ジャンルの話をしているといつも、大森望さんに「自分の好きなSFを幻想SFと言っていませんか?」 と指摘されたことを思い出します。まったく仰せの通りです、という感じで、この言葉を忘れないように、 幻想文学に取り組んでいきたいものと私は常に思っております。 さて今後九月末まではとても忙しくなるので、覗くこともできないでしょう。またいずれお邪魔しますので、 そのときにはよろしく。
なんで誰も出てこないんだろう<本格ミステリ話 僭越ながら。 倉阪先生の書いてはるとおりでして島田荘司にしか体現できない理論でしょう。 ただ、歌野正午などはいまだに島田理論を旨い形で取り込んでいる作家として認め てもよいし、美しい形で完成されたら傑作が生まれる可能性が高い理論ではあると思 います(「斜め屋敷」とかですか)。 ミステリって制約があればあるほど美しさが増すと思うので、「ほんの一部しか拾 えない」だろうと、そこで勝負するっていうやりかたはアリでしょう。 島田理論については綾辻行人との対談集「本格ミステリー」なんかを読んでいただ けるとおもしろいと思います(綾辻さんの、必死のフォローとか)。 こういう資料を当たらなくてはならない議論は苦手なんで、この程度しかつっこ めない……。 ここはやはり福井先生に出てきて頂くのがよろしいのではないか、と。 さて、全然関係ないのですが、 倉阪さん >ミステリ関係の掲示板でこういう濃い議論が発展しているところはないようですが ネット系の濃い人は新本格の議論をしない。薄い人は議論ができない。 よって、島田理論を中心とした新本格に関する議論は行われない。 違うかな。 新本格周りの話については我孫子武丸さんのページのエッセイがおもしろいです よ(どんどん話がずれている)。
中島様 島田理論は島田荘司の筆力があったればこそという部分が如実にあって、下手に真似 すると目も当てられなくなります(ほかの要素と組み合わせて使用するのが無難)。 理論的には?が多いんですけど、「幻想文学からミステリが発生した」という歴史的 認識は正しいと思います。ただ、幻想的な謎の提出を冒頭に限定するなど、単純化し すぎる憾みは否めませんね。
>倉阪様 >> 超自然的恐怖に限らず、もっと広い意味で「正しく幻想文学として提出された謎を論理 >> によって解体し、その落差に酔う小説」が島田理論の本格ミステリです。 うまく言えないのですが、これってミステリの楽しさのほんの一部しか拾え ていないような……。倉阪さんご自身は、島田理論についてどのようにお考え ですか?
中島様 >島田理論ってミステリ界ではマジョリティなのでしょうか。ミステリのことは何にも >知らないもので……。 超自然的恐怖に限らず、もっと広い意味で「正しく幻想文学として提出された謎を論理 によって解体し、その落差に酔う小説」が島田理論の本格ミステリです。ちょうどホラ ーひいては幻想文学と逆のコード。この辺については「そんなの本格じゃない」と根強 い抵抗もあります。見渡したところ、ミステリ関係の掲示板でこういう濃い議論が発展 しているところはないようですが(ここだけ異常なのか?)。
>倉阪様 確かに鷹揚です。心情的にはスーパーナチュラルでないものはホラーと呼び たくはないのですが、評論では現実との整合性も大事なのです。お許しくださ いませ。 >> >主として超自然現象によって引き起こされるタイプの恐怖(=超自然的恐怖) >> (が論理的に解明されるの)を楽しむ小説ジャンル >> とカッコ内を加えると島田理論の本格ミステリじゃないですか! ええっ、本格ミステリは超自然的な謎じゃないといけないことになってるん ですか? なんだかひどく範囲が狭いような気がするんですが。島田理論って ミステリ界ではマジョリティなのでしょうか。ミステリのことは何にも知らな いもので……。 >石堂様 「主として」は「超自然現象によって」に掛かります。 かいつまんで説明しますと、超自然的恐怖とは、超自然現象に遭遇したとき に感じられる恐怖──すなわち、自分の属する世界の秩序が根底から脅かされ るような感覚のことです。この秩序とは狭義には自然の法則のことですが、人 は社会的動物ですので、道徳とか社会通念が脅かされるだけでもそれに近い恐 怖を感じることがあります。だからサイコ物の中でも異常性の甚だしいものや スプラッタなどがホラーに混入してしまうわけです。 スーパーナチュラルなホラーは、たとえ実際には怖くなくても超自然的恐怖 を喚起しようとして書かれているのだから、ホラーに違いありません。ですか ら、それを本格と呼ぶ倉阪さんの姿勢は正しいと思いますよ。それに対してサ イコ物などはたまたま超自然的恐怖に近い恐怖を実現しているからホラーに入 れようかというだけであって、やはりホラーとしては傍流なのですね。あるサ イコ物がホラーに入るかどうかは異常性の大小によって決まりますから、受け 手によって意見が分かれることは避けられません。それこそ傍流であることの 証だと言えるでしょう。 さんざん苦しまれている石堂さんならよくお解りだと思いますが、すべての 小説をきれいにジャンル分けすることなどもともと不可能なのです。ジャンル の境界に位置する小説については、せいぜい「ホラーとして見るとこうだ」と いうように各ジャンルの本質に照らして評することしかできないのではないで しょうか。超自然的恐怖原理主義は、そのための物差しでもあるのです。 >笹川様 というわけで、お尋ねの『サイコ』ですが、発表時はミステリの叢書で出て いたように記憶しています。当時、ホラーは冬の時代でしたからね。それがホ ラーがブームになると、ホラーだと言われる。たぶん、『サイコ』はそういう ことを繰り返すのでしょう。 個人的には、最初映画で見たときには「なんだミステリだったの」という感 じで、何年か後に原作を読んだときには「おのれブロックめ、ミステリなんぞ に魂を売りおって!」と憤慨しました。クトゥルー神話に溺れてた時期が、間 に挟まっているもので(笑)。今はどうかというと──やっぱりスリラーだと 思いますね。でも、ホラーとして論じる人がいても別に気にしません。ほんと のボーダーですね。 ヒッチコックの記者会見のことは、乱歩がエッセイに書いてますね。ヒッチ コックの発音が「ハラア」と聞こえるとかなんとかいう内容だったような。ホ ラーという呼称が日本で広まったのは、せいぜいここ10数年のことのはず。 どっちかというと映画から広まったような印象があるので、『宇宙船』や『ス ターログ』のバックナンバーを辿ればはっきりするのではないでしょうか。あ ちらでホラーと呼ばれるようになった経緯は、今後の課題ということで。ゴシ ックのお勉強もその一環です。
確かにいままでは「ゴーストストーリーの洗練」に重点を置き過ぎており、「理に落ちない」 をホラー全体の構成要素とすることは難しいかなと考え直しました。 ただ、SFがネガティヴなヴィジョンを描くとホラーに接近するもので、そのあたりの境界 を見極める基準として「理」(理屈・論理)の有無・・・が言い過ぎとすれば濃淡が有効で はないかと考えます。
松本様 うーん、今日の目から見ると「サイコ」だけれど、当時は「怪物」だった(笑)。 ちょっと苦しいか? ミステリの部分だけでもどんどん突っ込んでください。
>いかに吸血鬼やゾンビなどガジェット的にはホラーでも「現実を侵犯する」部分が >なければファンタジーでしょう。 「いかに吸血鬼やゾンビなどガジェット的にはホラーであるものが跳梁しても」と 改めます。言葉が足りませんでした。
おひさしぶりです。 深い部分は反応できないのですが、 倉阪鬼一郎さん >「サイコ」はやはり当時の衝撃度も加味すると(個人的な初読も含む)ホラーでしょう。 僕はこのあいだ新訳で始めて読みましたが、どうもミステリにしか読めませんでしたねえ。 なんだかボアロー&ナルスジャックのようなイメージ……。 定義の中に「当時の」って時代背景を含んでしまうとややこしいような気がするんですが。
最後の「を」は関係ありません。 要するに「理ってなに?」とかいう厳密な話ではなく、「SFのほうがホラー(ファンタ ジー)より理屈っぽいでしょ」というかなりアバウトな話をしています。確かにここには 実作者の視点も入っているので、そろそろ切り上げようかと思っていますが。 ただ、現在は「異形」のようにファンタジーやSFも含めてパッケージがホラーになって いる部分があるので、その点をまず確認しておくのは重要でしょう。 それから、ホラーにも理(この場合は因果律?)が含まれるのは当然です。突き詰めてい ってそういう理が何もなかったら小説にならないでしょう。
石堂様 そういう狭義の「理」ではなく、理屈(論理)の濃い薄い、せんじつめれば座標軸の 問題です。ホラーとSFおよびホラーとファンタジーの境界は見えにくい部分があり ますよね。ですから、定義は定義として中島さんのでOKなのですが、ホラーの特異 性を際立たせる構成要素(要諦)として「理に落ちない」「現実を侵犯する」を強調 しているわけです。ホラーとファンタジーの違いは、ホラーはまず確固たる現実(リ アルな物語世界)があるということです。いかに吸血鬼やゾンビなどガジェット的に はホラーでも「現実を侵犯する」部分がなければファンタジーでしょう。以上のよう にホラーのバイアスのかかった座標軸ですから、ファンタジーから見るとまた違うの でしょうけど。 それから、「ソラリス」の例は説明不足でした。私はホラーに欲しいと前から言って いるんだけど、「いや、ソラリスには理屈がある」とSFの人に抵抗されるので(笑)。 を
シェヴァイク様 たいへんによくよくわかりましした。 鬼一郎様 理というのをシェヴァイクさんと同じ意味で使っているんですか? 理とは合理的な解決のことですか? 超自然現象に対する説明が科学的か否かということですか。SFやファンタジーと比較するので、よけいに わかりにくくなってしまうのです。ソラリスの例も?です。ごめんね。だって、ソラリス全体は未知の惑星 に行って変な目に遭った、という話で、『死の影』と一緒でしょ。マンションに住んだらそこが変だった。 ソラリスの海というわけのわからないものが異生命体であるという説明が合理的、ということなら、合理に 対する理解が私とは違うのでしょう。この不思議な現象はなんだ? 未来の超科学です……というようなも のがSFにはあるわけですが、それは幽霊ですと答えることと、論理性という点においてはさしたる差はな いのでは、と思われます。 また、ジャンル・ファンタジーというのは、ジャンル総体で比べると、SFよりもよほど合理的に理路整然 となっています。これは幻想的な部分を納得させるためにそうなるわけで、ホラーにもそういう面があるの ではないでしょうか。キングなどそうなのでは? 超自然現象に関わるところで合理的な――というよりも 超自然を解消させてしまうようなところがあるということがミステリとホラーの違い、というのはわかるけ れども、それを理の有無と単純化し、SFとの関連において敷延することは出来ないのでは、と考えます。 とにかく……理ってなに? 理にこだわるのはなぜ? ミステリにこだわるから? 中島様 スーパーナチュラルでなくてかまわなくて、でもホラーを定義付けすると超自然的恐怖となるわけですね。 ということは、超自然が喚起する恐怖ではなくて、超自然的な世界へと読者を拉致するような感覚を味わわせ る恐怖ということ、と理解していいんでしょうか。それでそういう超自然的な恐怖を味わわせるのは超自然的 な怪異を主たるものとする、ということで……。理解が間違っているようでしたら、また御教示ください。噛 んで含めるように言わないとわからないんです。それから、超自然的な恐怖と普通の恐怖の違いはどこか、と いう疑問もわいてきますね。超自然的怪異からしか喚起されないのなら、スーパーナチュラルは必須だろうし。 各自の感覚による、というのではまずいですよね。それとも、主として超自然的恐怖を楽しむが、普通の恐怖 も楽しむ……という意味なのかな? いや、それは違いますよね? なんかよくわからなくなってしまいまし た。 笹川様 Qには鬼一郎の好きな不条理的な、解決がつかず、説明もされない、という怪異がよく描かれていましたよね。 何となくSFっぽく、私は見ていましたが、雰囲気はSFでもそういうことが可能なのは、要するに表現手法の問 題ではないかとも思われますね。(深く考えないで書いてます。ごめん)怪奇大作戦は、超自然現象をSF的な解 釈によって現世的に解決しようとするミステリという、確かにジャンル融合の典型的なものです。子供の頃、とて も怖かった。説明がついても、それはそれで怖い、というのすら中にはあった。(かまいたちの話とか)中島説に よれば、それは超自然的恐怖を一瞬でも味わわせているわけですから、ホラーとなりますよね。中島さんの定義っ てすごく便利かも。このあたり、もっと誰か深く突っ込んでください。おもしろい例だと思います。
>主として超自然現象によって引き起こされるタイプの恐怖(=超自然的恐怖) (が論理的に解明されるの)を楽しむ小説ジャンル とカッコ内を加えると島田理論の本格ミステリじゃないですか! やはり「理の有無」は重要ではないかと思うのですが。
中島様 >歴史と現状を踏まえて厳密に定義づけるなら、ホラーとは「主として超自然現象に >よって引き起こされるタイプの恐怖(=超自然的恐怖)を楽しむ小説ジャンル」 厳密に言えば、「厳密かつ鷹揚に」ですね(笑)。 さて、「理」問題ですが、あれは構成要素ですから「ジャンル的な理の含有率」という 鷹揚な結論を考えてみました。ミステリとSFは理を多く含有し(ミステリのほうが多 いですが)、ホラーとファンタジーには少ない。むろん、例外は多々ある・・・ってと ころでしょうか。 「ソラリスの海」には理がないからホラーだけど「ソラリス」全体を通すと理の含有率 が高いからSFとか・・・。 「サイコ」はやはり当時の衝撃度も加味すると(個人的な初読も含む)ホラーでしょう。
中島さんが明らかにした「秘密」を読んでいて思ったのですが、皆さんは(特に中島さんは)例え ば『サイコ』をどう受け止めていらっしゃるでしょうか? リアルタイムで、あるいは何も知らずに『サイコ』を読んだ−観た人は幽霊物だと思っていてビッ クリしたという話がよくありますよね(友成さんもエッセイに書いてました)、僕なんかには状況 的に不可能な体験ですが。来日記者会見で、ヒッチコックが『サイコ』のことを「ホラー・ムービ ー」と言ったのが、日本で<ホラー>という言葉が認識されたはしりだ、などという怪しげな説も ありますが、確かに『サイコ』は、初読(初見)の段階では「主として超自然現象によって引き起 こされるタイプの恐怖」になっているように思います。 僕自身は、ホラー・ファンでない人には「ノーマン・ベイツなんて怪物と変わらない扱いなんだか らホラーだ」と乱暴なことを言ってますが、原理主義者としてはどうでしょうか? ところで、SFやミステリとの境界−あるいは融合について考えるうえで、円谷プロの第一期作品 群は、分かり易いモデルケースになるのではないでしょうか(特に『Q』と『怪奇大作戦』)。た だ、<ヒーロー>という厄介な問題はありますが。
>石堂様 >> ネガティヴ、現実侵犯の定義からはスーパーナチュラルが落ちてますが、原理主義者 >> がそれでいいんですか? この二つだと、サイコものは当然入る、という構図ですが。 構いません。超自然的恐怖原理主義は、超自然現象原理主義ではありません ので(笑)。 サイコ物の混入というのは何も最近のことだけではないですよね。過去を振 り返ってみれば、「ウィアード・テイルズ」でも各種のアンソロジーでも、ホ ラーにはしばしば超自然を伴わない作品が混じっているわけですから。SFと の絡みも同じような感じだし。ところがその一方で、ホラーと言えばスーパー ナチュラルという認識は厳然とあるし、実際にジャンルの中核を成してきたの は超自然を題材にした作品でした。これらの矛盾する事実を両方とも説明でき なければ、ホラーの定義としては不十分なのではないでしょうか。 そこでラヴクラフトの出番となるわけです。彼は「文学における超自然的恐 怖」の中で、ホラーの値打ちは読者を未知の力や世界に接触したという気持ち にさせるかどうかのみで決まると言っていますよね。だから、ラドクリフの作 品のように怪異に合理的決着を付けてしまう小説であっても、読者にそういう 恐怖を与える瞬間があったなら、そこはホラーの真価として認めなければなら ない、と。つまり、ホラーか否かを決めるのは喚起される恐怖の質であって、 手段の種類ではないとラヴクラフトは考えていたわけです。 「これだ!」と思ったんですよ。超自然の小説であるはずのホラーにサイコや SFが混じってしまう理由が、これできれいに説明できるじゃないですか。従 って、歴史と現状を踏まえて厳密に定義づけるなら、ホラーとは「主として超 自然現象によって引き起こされるタイプの恐怖(=超自然的恐怖)を楽しむ小 説ジャンル」であって、超自然的恐怖こそがホラーの根本原理であり、ホラー にまつわるすべての事象は超自然的恐怖の概念を手掛かりに説明し得る──こ れが超自然的恐怖原理主義なのです。超自然的恐怖原理主義は現実を無視した 理想論ではなく、一見混乱した現実を解明し得る唯一絶対の真理(笑)なので す。 ジャンル問題を『幻想文学』の特集でというのは……どうでしょうねえ? おもしろそうなのですけど、どのような構成になるのやら私には見当も付きま せん。おっしゃるとおりあまりにも茫洋としていて、特集のテーマとしては無 理があるように思いますね。それぞれのジャンルの特集を組んだときに各ジャ ンルの視点から語るという、現在の形式が無難なのではないでしょうか。
シェヴァイク様 >「理」の有無を以って本格、非本格を分けるという見方はとっていません。 私もとっていません。「スーパーナチュラルか否か」に力点があります。 「本格ホラー」はイデア論と状況論(?)の二股がかかっているので、さらに 話がわかりにくくなっていますね。とりあえずここでは「ホラー」で統一して 考えることにします。 で、私が最初に挙げた三要素はほかのジャンルと区別するための「構成要素」で あって「定義」ではありません。定義なら「ネガティヴなスーパーナチュラル」 (C.我孫子武丸)が簡明でいいかなと思います(「主として現実を侵犯する」 を頭につけてもいいのですが長いし)。いずれにしてもスーパーナチュラルは外 せないでしょう。
石堂さま、RESありがとうございました。 | ただ、現実を侵犯する、のは怪奇幻想文学全体の主要な機能の一つで、ホラーのもの |ではありません。この点はたいへんに微妙な問題で、現実のどのあたりをどのように侵 |犯し、主人公がそれにどう対処し、どう展開するかがホラー、SF、ファンタジーの分 |かれ目になっているわけですよ。その点で中島さんのネガティヴというのが重要になっ |てきます。もちろんそれだけでジャンル的な境界を確定できるわけではありませんが、 |一つの指標にはなると思います。 これはその通りですね。「侵犯する」で自動的にホラー固有の属性を表現できる訳では ありませんね。 | それを本格とか本格 |じゃないとか言うのもおかしな話。もっとも本格ホラーというのは鬼一郎の造語でしょ |うから 前発言の表は、この会議室で出た諸意見と私見の折衷とも言うべきもので(それ故あち こちに?があります)、私としては、「理」の有無を以って本格、非本格を分けるという見方 はとっていません。 「理に落ちる」という表現を敢えて使うにしても、それは安直な謎解き や前例の踏襲に用いるのが適切で、「理の有無」と完全に同義ではないと考えます。
君恋しひとり彷徨う谷中墓地 投稿者:酒井百世 投稿日:09月09日(木)16時34分06秒 tokyo2-32.webnik.ne.jp
西崎様 お忙しい中、わざわざお返事ありがとうございました。 同じ作家でも翻訳でこうも印象が変わるものか、という大変贅沢な驚きを味わっております。 西崎様お訳の『アダムとイブ』。機会がございましたら、ぜひ! 中島様 ミヤコ蝶々の霊園CMもありました。墓地CMも関西パワーに席捲されているようで。 それにしても墓地が怖くないっていうのは、ホラーを読む上では、凄くマイナス要因かも。 なんか損しているみたい。>ねっ、深川様
石堂様 >つまり怪異は幽霊の仕業であった、ということで円満に解決してしまう話もありうる >わけで、たぶん鬼一郎はこういうものを理に落ちる、と感じているのではないでしょ >うか。 そのとおりです。ここからミステリが発生したのではないにしろ、この「理に落ちる」 「落ちない」でホラーとミステリの近代的洗練の流れが二極分解するというのが仮説 です。 >また、鬼一郎が吸血鬼を現代に蘇らせるに当たって取った手法はファンタジー的整合性 >の方向にありますが、 あれはミステリの「後期クイーン問題」に対する私なりの解答だったりします(山口雅也 氏の影響もあるかな)。要するに「世界を作ってしまえばいい」「人間だから悩むんだ」 ってとこですね。 >作家があまりにも定義に関わるのは危険なことだと私は思います。論理に忠実たらん >としていい作品が書けるとはまったく限らないのですから。もちろん怪奇小説とは何 >かを考えるのはいいのですが、それはあくまでも実作者という立場を離れることは出 >ず、普遍的な立場に立つものとはなりえない意見なのではないか、と。 ある意味では正論ですが、「若手論客」と言われてた時期もあるんだから・・・。 >むしろ、鬼一郎なら、私こそが怪奇作家である、私は人の論理には関わらず自分の >書くようなものをホラーと定義する、なんぞと開き直ってもいいのでは、と私は思 >います。 それじゃ朝松氏とあまり変わらないような気がしますが(笑)。 中島様 >理に落ちない代表というとエイクマンですが、あれを真ん中というのは抵抗がある >ような……。 確かに洗練を目指すあまり純文学に限りなく接近していますね。後期ウエイクフィー ルドやシャーリー・ジャクスンもそうですが。
酒井さん えー、こちらに書かれていらっしゃいましたよね。お返事が遅れてしま いましたが。そうですね、創元社の「アダムとイヴ」私も何だこれはと思 いました(いま自分の手で訳してみた気持ちもありますが)。やはりコッ パードの名前をちゃんと認識したのは「消えちゃった」です。しかし、ほ んとうにOne and onlyの作家ですね。試金石のような作家でもあるし。自 分の手で訳すことができて私は本当に幸運でした。 西崎 拝
中島さん ネガティヴ、現実侵犯の定義からはスーパーナチュラルが落ちてますが、原理主義者 がそれでいいんですか? この二つだと、サイコものは当然入る、という構図ですが。 それから、怪獣は存在自体が理を超えているというのは苦し紛れの発言ですね? 怪 獣は現実侵犯するスーパーナチュラルな存在というところでホラーと重なるのでしょう。 正義の味方のゴジラが宇宙から来た悪い怪獣キングギドラを退治する、と言っても、ホ ラーにはならないでしょう、それはファンタジーがSFです。無理にジャンル分けすれ ば。しかしガメラを観ていて、いちいちファンタジーかSFかホラーか、などとジャン ル分けするでしょうか? そういうことにこだわるのは私のような商売の人間だけだと 常々思っていたのですが……。 それはともかく、ジャンルの問題はやっかいです。『幻想文学』のブックガイドを作 るときの悩みの種は、ジャンル特集をするときの線引きです。モダンホラーだのミステ リだの、とにかく、何かの定義づけをしようとすると、必ずそこから洩れるものがでる。 実作は常に定義を裏切る、というのが偽らざる実感です。また、そうしたジャンル分け は、今、ここ、という限定的な状況の下でしか成り立たないというところがある。現代 日本の情況を無視して純粋なジャンル論は、真の意味では成立しえない。ある程度の妥 協をするなら大丈夫ですが。ともあれ、『パンデモニアム』という文化的な時代の証言 集を読んだとき、怪奇幻想小説史を考えるうえで、SFとの関わりはきわめて重要であ ることを実感したということがあり、中島さんのラヴクラフトがSFへと流れてしまう のはなぜか、という疑問の提出の仕方には共感を覚えました。同時にミステリとの関連 もゴシック小説をお読みなら、看過できないということは強く感じておられることと思 います。文学の流れは川の流れのようで、上空から大筋を追えても、ちょっと深く考え てみると、水面下では複雑な流れがからみあったりしていて厄介です。面倒なので、ふ だんは考えたりしていないのですが、川の流れをふまえたうえで、今の日本ではこうな のだ、と喝破してくださる方がいらしたら、どんなによいでしょうか。本当は『幻想文 学』でやるべきことなのかもしれませんね、もしかすると。そんなに茫洋としたものは 今まで特集したことがないようにも思いますが、どんなものでしょうか。
おもしろそうなのでちょっと参加。 シェヴァイクさんのご意見には基本的に賛同できます。 ただ、現実を侵犯する、のは怪奇幻想文学全体の主要な機能の一つで、ホラーのもの ではありません。この点はたいへんに微妙な問題で、現実のどのあたりをどのように侵 犯し、主人公がそれにどう対処し、どう展開するかがホラー、SF、ファンタジーの分 かれ目になっているわけですよ。その点で中島さんのネガティヴというのが重要になっ てきます。もちろんそれだけでジャンル的な境界を確定できるわけではありませんが、 一つの指標にはなると思います。 また、「理に落ちる」という言葉について、補足説明が必要ではないでしょうか。理 に落ちる、落ちないでわけてしまうことは、誤解を生みます。あいまいなままに謎が解 決されずに終わる、というものと、何らかの解答を得て終わる、というものがある、と いう分け方は可能でしょうが、それはタイプの違いに過ぎないし、それを本格とか本格 じゃないとか言うのもおかしな話。もっとも本格ホラーというのは鬼一郎の造語でしょ うから、鬼一郎の定義に全面的に従うならそれでいいんですが。つまり、それは普遍的 な図式ではなく、鬼一郎の内面ではホラーはこのように格付けされているということだ と思うのですよ。 まず、怪奇幻想文学の中でも理に落ちる場合はあると思うので、笹川さんの見解とは ずれます。つまり怪異は幽霊の仕業であった、ということで円満に解決してしまう話も ありうるわけで、たぶん鬼一郎はこういうものを理に落ちる、と感じているのではない でしょうか。ここでの力点は円満な解決ということにあり、なんだそうだったのか、の 「そう」が「枯れたススキかあ〜」でなくて「なるほど、水子の霊だったのね〜、ナッ トク」であったとしても、理に落ちる、という感じになると思います。かといって、因 果応報譚すべてが理に落ちているかといえばそうではないと実感されます。また、「な だ水子の霊……」ならホラーではない、ということになると、これまた問題です。ジャ ンル内には常にしょうもない作品があるのであって、理に落ちちゃったホラーも当然ホ ラーではあるわけです。それを本格ホラーじゃないとか言ったりするのはまったく感覚 的な問題に過ぎないのでは、と私は思います。 あるいはSF的に合理的解釈も可能である、とか、ファンタジー的な整合性を求めて いるということを、理に落ちる、とは言わないようにも思います。ラヴクラフトの「魔 女の家」や「異次元の色彩」などは合理的なSFとしても解釈が可能ですが、立派なホ ラーであるし、現にSFホラーと言えるものはたくさんあるでしよう。また、鬼一郎が 吸血鬼を現代に蘇らせるに当たって取った手法はファンタジー的整合性の方向にありま すが、理に落ちているでしょうか? これをどう取るかは、あくまでも読者の主観に関 わるのではないでしょうか? 結局、理に落ちる、落ちないを問題にしたのは、あくま でも鬼一郎が作家であるためではないでしょうか。つまり、これは作家の姿勢の問題で あり、自分としてはこういうものを書きたいということでしょう。理に落ちる=超自然 的なものに対して理屈をこね、超自然を出したことに対してエクスキューズしておく、 というような作家的態度は諾いがたいし、自分はそうしたくないということなのでは? 作家があまりにも定義に関わるのは危険なことだと私は思います。論理に忠実たらん としていい作品が書けるとはまったく限らないのですから。もちろん怪奇小説とは何か を考えるのはいいのですが、それはあくまでも実作者という立場を離れることは出来ず、 普遍的な立場に立つものとはなりえない意見なのではないか、と。むしろ、鬼一郎なら、 私こそが怪奇作家である、私は人の論理には関わらず自分の書くようなものをホラーと 定義する、なんぞと開き直ってもいいのでは、と私は思います。
今登録した表の右側が崩れていたので該当部分のみ再掲載します。これも 崩れたら「理に落ちない」と「狭義のホラー小説?」の行を左にずらして読んで 下さい(泣)。 | 「超自然的」(=準広義のホラー小説?) | | 「理に落ちない」 「理に落ちる」→→→→超科学、 → ↓ ↓ 擬似科学 →SFへ 本格ホラー小説? 因果、オカルト、 エイリアン → 狭義のホラー小説? 魔術、呪術、etc. 怪獣、etc. <怪奇小説> <SFホラー>
こんにちは>ホラー定義ツリーの皆さま。 この問題について最も大雑把な見解は「怖ければとにかくホラーでしょ」 というものでしょう が、『黒い家』の取り上げられ方を見ても、それほど通用性がない見方ではない−−というより、 所謂「世間」では普通の解釈だったりするように思います。 | 中心には理に落ちない本格ホラーがあって、理の方向でオカルトに傾いたり |SFに傾いたりするという感じでしょうか。その場合、真ん中に位置するのは |具体的にはどういう作品になるのでしょう。理に落ちない代表というとエイク |マンですが、あれを真ん中というのは抵抗があるような……。 最も広義な見地からホラーを定義・分類していくと、以下のようになるのでしょうか? 「現実を侵犯する」(広義のホラー小説?) | ------------------- | | 「非超自然的」な生命・ 「超自然的」(=準広義のホラー小説?) 精神への侵害 | | ↓ 「理に落ちない」 「理に落ちる」→→→→超科学、 → <スリラー、サイコ> ↓ ↓ 擬似科学 →SFへ <一部の奇談小説> 本格ホラー小説? 因果、オカルト、 エイリアン → 狭義のホラー小説? 魔術、呪術、etc. 怪獣、etc. <怪奇小説> <SFホラー> 勿論、原理主義のムジャヒディーンである中島さん(笑)からすると、左側は「ホラーに非ず」に なる筈ですが。ちなみに、私はやはり完成度や独創性が高い「理のホラー」は、「理に落ちない ホラー」とは代替性がないと思うので、積極的にその位置を認めたいです。 以下、余談ですが。 >『墓地を見おろす家』について 出版以来、傑作の評高い作品ですが、私としては小池さんの作品では『死者はまどろむ』や、『水無月の墓』の方が遥かに気に入っています。ニフティでも書いたことがありますが、実話の<怪談>にこだわりを持つ者として、『墓地を〜』に出てくる現象が、特にラストへ向かうにつれ 余りにも「過剰」に感じられたのが理由です。ただ、フクさんのご発言を見て、読み直す必要が あるかな、とも考えたのですが。 >中島さま。 | 逃げたら駄目です(笑)。いっしょに遊びましょう。 『エヴァンゲリオン』みたいですね(笑)。「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ……」。
あんなに長々と書くんじゃなかった・・・。 書きながら考えるタイプなので再現できないのですが、仮説の結論部分だけ断片的に 記します。 60年代まではポジティヴ、70年代以降はネガティヴという20世紀の流れがあった。 20世紀は西欧的ロゴス中心主義にさまざまな疑義が呈された時代だった。 全エンターテインメントを通じて、70年代以降に「螺旋的旋回」とでも称すべき現象が 起き、ベクトルが逆向きになった。 ホラーのジャンル・マーケットの成熟はその一環として捉えられる。 なんですけど・・・どうつなげていいやらショックでわからなくなってしまいました(泣)。 ラヴクラフトに関してはアンチ・キリストという視点もありましたね(忘れてた)。 そうするとさらに難解になるのですが、「ラヴクラフトの大衆受容」という観点に絞れば どうかとぼんやりと考えています。 ホラーの「理」については、ミステリとの関連で「仮説の後半」で書いたんですけど、そ れも消えてしまいました。またいずれ。
>酒井様、深川様、フク様 何となく思い出したのですが、関西ローカルの霊園だか葬儀屋さんだかのC Mで、 「墓のない人生は、はかない人生と申します」 だとか 「おててとおててのしわとしわを合わせて幸せ。南〜無〜」 なんてのがありました。それがどうした。>自分 >倉阪様 何とお慰めすれば良いのやら……。 >> 「理に落ちない」というのは、むろんSFやミステリとの比較対照のうえで導き出 >> されてきた仮説的構成要素なのですが、 そうなんですよね。「SFとどこが違うの?」と問われたら、まずは「理に 落ちるか落ちないかです」と答えてしまう。 >> (「本格ホラーの構成要素」と「本格」をつけないと無理があるのかな?)。 >> ただ、オカルトとホラーは個人的には「理」の有無で分けたいと思うのですが。 中心には理に落ちない本格ホラーがあって、理の方向でオカルトに傾いたり SFに傾いたりするという感じでしょうか。その場合、真ん中に位置するのは 具体的にはどういう作品になるのでしょう。理に落ちない代表というとエイク マンですが、あれを真ん中というのは抵抗があるような……。 >笹川様 逃げたら駄目です(笑)。いっしょに遊びましょう。 >三枝様 別にカウンターを回したいわけではなくて、こういう話題も関心を持たれて いるのかどうか知りたかっただけです。やはりゴシックよりはクトゥルーの方 が人気なのか、とか。 >櫻井様 そこまでは判りませんか?
倉阪様! なんてことなんでしょう! どうぞお気をたしかにあそばされませ!
『墓地を見おろす家』は確かに小説としては、抜群の面白さです。是非お読み下さい。深川様> 未読の方にネタバレになってしまうといけないので、内容について申し上げるのは、差し控えま すが、私としは「異界」へ行く手段として、墓地が選ばれていることにちょっと、違和感を覚え るのです。『墓地だったかもしれない土地を見おろす家』ぐらいに曖昧にしてほしかったという ところでしょうか。「墓地」を物語の「理」にしてしまった点とも云えるかもしれません。
一時間半かかって書いた「仮説の後半」、容量オーバーで二つに分けようとしている うちに全部消してしまいました(号泣)。
>深川さま 『墓地をみおろす家』の怖さの根底は「墓」そのものでなく、「墓」から繋がる別次元 というか異界のものにあると思いますので、「墓」そのものを怖いと思うかどうか、と は関係なしに楽しめると思いますよ。ま、言わずもがなのことかもしれませんが。
無理してカウンター上げたいとはおもわないっす
議論に水を差さぬよう手短に御邪魔します。 >酒井様 仰言るとおりです、確かに三十年前にモスバーガーはあんまりでした(笑) 母親の話に知らず自分の記憶を重ねてしまったようです。間抜け。 私はまさしく墓の見える家に住んでおりますが、実際身近すぎて怖さは感じませんね。 墓地というか猫の住処程度の認識しかない。 『墓地を見おろす家』は今後の読書予定に入っているんですが……はて、如何なものか。
早く「仮説の後半」を書かねばならないのですが・・・。 ホラーにおける「理」(「り」もしくは「ことわり」)は確かに大きな問題ですね。 「理に落ちない」というのは、むろんSFやミステリとの比較対照のうえで導き出 されてきた仮説的構成要素なのですが、基本的に私はSFやミステリでも「理」で はない部分(センスとか電波めいたものとか)に反応する読者のようで、ホラーだ となおさらその部分を強調し過ぎてしまう憾みがあるのではなかろうかと思います。 ちょっと考え直します(「本格ホラーの構成要素」と「本格」をつけないと無理が あるのかな?)。 ただ、オカルトとホラーは個人的には「理」の有無で分けたいと思うのですが。
改行に不手際がありましてすみません。
「理」を「り」と読むか、「ことわり」と読むかでもニュアンスは変わってくると思うのですがどうでしょうか?
面白い議論のときに限って忙しいのが不運(いやもちろん仕事があるのはとっても嬉しいのです が)な私です。 というわけで、ほんの思い付きだけ。 僕にとって「理」というのは、大雑把な意味での「科学」というか「自然の法則」のようなものな んですよ。だから、当然「スーパーナチュラル」=「理に落ちない」と不可分です。シェヴァイクさんや三枝さんが言うような、例えば「因果」なんかもこの考え方だと“アリ”なんですよね。 じゃあ、疑似科学との折り合いはどうつけるのかというと、“説明”の面白さが主眼か、単に“言 い訳”として用いているだけかで分けている、といったところでしょうか。これはサイコ物なんか でも同じです。 あ、ただ「理屈」が生み出す恐怖も嫌いではないです。「非現実的」ではあってほしいですけど。
ということで。 因果って理なんでしょうか、理じゃないんでしょうか。 「たたり」が理か、理でないかでも良いんですが。 あ、本論には関係ないので、忘れてくれてもOKです。
とりあえず訊く 投稿者:三枝 投稿日:09月08日(水)09時41分22秒 ss.narc.affrc.go.jp
カウンターあげたいっすか?
>倉阪様 >>「スーパーナチュラル」「理に落ちない」「現実を侵犯する」 前二者は「現実を侵犯する」ことを目的にしているのだと言えませんか? 重要だけど、あくまで「現実を侵犯する」に従属するものだと思います。 「ネガティヴ」は恐怖につながる重要な要素ですね。極限まで絞り込むなら、 「現実を侵犯する」「ネガティブ」でしょうか。そこから生まれる反応が「超 自然的」「恐怖」となると。 全般的な傾向としてホラーが非論理的なのは確かですし、理に落ちるのはい けませんが(「理に落ちる」って言葉自体が否定的な意味を含んでるんですけ どね)、ホラーの可能性を追求する意味で「現実を侵犯する<理>」は積極的 に評価したいと思います。SFに学ぶべきところは多いですよ。例えば山田正 紀の『幻象機械』の恐怖感などはまさしくホラーのそれで、そこだけ取り出せ ば『屍鬼』や『墓地を見下ろす家』をも上回っていると私は思います(個人的 な嗜好の差もあるだろうけど)。
こんにちは、倉阪鬼一郎さま。 |因果の理などで一つ欠けても(理に落ちても)ほかの要素が濃い場合はホラーである 私は「理に落ちない」ことで喚起される恐怖と、「巧みに構成された理」がもたらす恐怖は 等価であり、後者もホラーのあり方の一つとして積極的に評価されるべき−−と考えるのです が、如何でしょうか?後者で言う<理>とは、例えば『人喰い蝦蟇』ような擬似科学、様様な オカルトや呪法の体系、呪い・祟り譚のような心霊的因果などが該当すると考えています。 擬似科学的な<理>なら、確かにSFに接近してしまうでしょうが、救いようのない因果を 描いた『塁ケ淵』みたいな話なら、これは立派なホラーではないでしょうか?
中島様 「あとだま」のトップリンクから外れたのが大きいようです。 いままでが異常だったのでは?
まずはここから。 「スーパーナチュラル」「理に落ちない」「現実を侵犯する」をホラーの三つの構成要素 としましたが(ほかにも「ネガティヴ」や「恐怖への志向」などを考えましたが)、たと え因果の理などで一つ欠けても(理に落ちても)ほかの要素が濃い場合はホラーである、 と単純に考えてみました。たとえば「スーパーナチュラル」は最も優先される構成要素で すが、これがなくても「現実を侵犯する」要素が異様に濃い場合はホラーの範疇に入って くるわけです。むろんこれは例外的で「隣の家の少女」くらいしか思い浮かびませんが、 たぶんに主観の問題もあって、同じ観点から「黒い家」をホラーと見なす立場もあります。
中島様 >ややこしいことに挑まれてますねえ。各国の出版事情の差異とか、映画やコミック >といった他のメディアとの関連とか、ちょっと考えただけでも気が遠くなりそう。 >私なら「10年ほど時間をくれ」と言いたくなるところですが。 確かに各国事情と下部構造を考え出すとキリがないのですが、「すべてを説明する」 のではなく「こういう視点から見ればわかりやすい部分が出るのではないか」という くらいのスタンスで仮説を考えています。 で、ラヴクラフト問題は進んでおりませんが、昔も似たようなことを考えてたなあと 思い「SFの本」の評論を読み返したら次のような記述がありました。 「だが、その偏執狂的な怪物の描写と同様、あらゆる異形の者に命名する情熱はいさ さか異様ではなかろうか。第一級の怪談は謎が謎のままで終わるのをむねとするもの だが、いかに地上的発音が不可能なものであってもそれが名を有しているという構造 は厳然として存在し、恐怖という観点から見れば過剰な命名はむしろ逆効果となって いる。名を持たない朦朧としたもののほうがよほど恐いのだ。にもかかわらず、ラヴ クラフトはなぜ名づけたのか、いや、名づけざるを得なかったのか?」 以下の分析はこわれていて恥ずかしいので割愛しますが、15年前とあまり変わって いないような・・・。
中島さん カウンターの回り具合は、すこし鈍っているようです。 ま、火事場見物の人たちが見に来なくなったのでは(笑) 当然ですがカウンタの数字で勝負してませんからね、この掲示板は。
私は自動巡回ソフトを使用しているので判らないんですけど、先だってのよ うな特濃の議論が繰り広げられている間って、カウンターの回り具合はどうだ ったんでしょう? どなたか見ていなかったですか。 >倉阪様 言い忘れておりましたが、ミステリ、SF、ホラーのうちホラーのジャンル 形成がいちばん遅れていたというのは異論はないです。 ややこしいことに挑まれてますねえ。各国の出版事情の差異とか、映画やコ ミックといった他のメディアとの関連とか、ちょっと考えただけでも気が遠く なりそう。私なら「10年ほど時間をくれ」と言いたくなるところですが。 しかし、私も以前から気になっていた話題なので興味津々で拝見しておりま す。
シェヴァイク様 また難しい問題が・・・。 お時間をください(ほかの方もよろしく)。 「お約束」(ことにミステリ)と「コード」はどう違うかとか不意に浮かんだりしたの ですが、あんまり広がると(広がるのは大歓迎なのですが)、ちょっと一人では対応し きれませぬ。
こんにちは>倉阪さま。 ご多忙なのに話を拡散させてしまって恐縮ですが……。 たとえば、生前の執着を追って亡霊が出現し、九字を切ることで退散する−−というのは、 心霊譚の約束事をきっちり踏まえていますが、これは「理に落ちる」に含まれないのでしょう か? 私は「超常の理」とでも言うべきものがうまく構成されているのも一つのよいホラーのあり 方だと思ってまして、「底無し沼」は完成度の高い因果話という意味で傑作だと考えているん ですが。
酒井様、皆様 質問が出てしまいましたので、仮説に入ります。 「ホラーのジャンル・マーケット的成熟が遅れたのはなぜか」 その前に断っておきます。ホラーのジャンル・マーケットはいろいろあったわけですが、 ミステリやSFに伍す近代的マーケットの成熟はホラーが最も遅れたというのが私の認識 です(だから、日本のホラーやキング以前のホラーがなかったかのような扱いをする一部 のミステリ系評論家が出たりします)。なお、ジャンルの発展は国によって違いますが、 これは仮説だし煩を避けるの意もあって国別には行いません。 まず、ホラーは普遍(用語疑問)に属するジャンルです。自分を安全な位置に置いて恐怖 を享受しようという欲望が人間にはあります(むろん因子がない人もいますが)。これは どこまででも溯れるのですが、例えば公開処刑とか公開魔女裁判とか、まあその辺にして おきます。文芸に限っても同じで、ミステリやSFより歴史は古く、さまざまな作品が書 かれ、ジャンル・マーケットができる場合もありました。ちょっと補足的脱線ですが、ア メリカのパルプ・マーケットが40年代に入って退潮したのは、べつに作家や編集者の責 任ではなく、やはり戦争の影響でしょう(大衆は恐怖を享受する余裕がなくなった)。 つまり、ホラーは近代が要請したジャンルではないのです。近代を背負っているわけでは ない。それにひきかえ、ミステリとSFは近代が要請したジャンルです。ミステリの話を しますと、背後にやはり近代的なものを背負っています。用語が妥当かどうかわかりませ んが、西欧的ロゴス、近代合理主義、西欧型民主主義、都市空間といったものが私には見 えます。いかに館が地方に建っていても、物語空間としては都市空間です。また、そうい うものを背負っているからこそ「フェアプレイ」が重要視されたりします。実はミステリ は近代的人間中心主義へのアンチテーゼにもなっている部分があるのですが、煩雑なので この辺で切り上げます。「大量死」の笠井理論も絡ませると面倒なのでやめます。 で、20世紀前半から中盤(ってすごく大ざっぱですが)にかけては、近代合理精神(用 語やや疑問)自体はまだわりと信頼されていました。科学文明とか人類の健全な発展とか、 まあ何でもいいんですけど、近代のポジティヴな面に対する信頼は揺らいでいなかったわ けです(世界大戦はどうなるのかと問われそうですが、戦勝国も含めての話なので)。ゆ えに、近代を背負っているミステリとSFが強くて、ホラーは後塵を拝していた。 疲れたので、後半はいずれ書きます(意外な結末があるかも)。つづく。
ここ何日か掲示板を覗くたび、白熱した議論が展開されているので、思わず固唾を飲んで 見入ってしまいました。書きこんである内容について、いったんパソコンの電源を切って しばし沈思黙考。そのあと日常のバタバタを済ませ、再び掲示板を覗くと、さらに議論が 進んでいるという有様。まさに目が離せませんでした。 >ホラーのジャンル・マーケット的成熟が最も遅れたのは 本当になぜ?なんでしょう。芸能(芝居・大道芸・見世物etc.)や映像(ファンタスマゴ リア)など、いわゆる「視覚の分野」では大衆の圧倒的支持を得ているというのに。 川島様 少しばかり不安な点もあったのですが、思い切ってネットをはじめてよかったです。(♪) 私のこういう前向きで明るい(疑笑)姿勢が幸いしたのか、状況もすこしだけよい方 へ行き、何事も気持ちの持ちようなのだな、などと思ったりしています。 >はがきを書く時間くらいはあることがよくおわかりになるのではないでしょうか。 そんな、とんでもない。皆さんの熱意にかえって頭の下がる思いです。 >お会いしたことはないけれど、みんなみんな大事な心の友です。 ありがとうございます。本当に心からお礼申し上げます。 私はいままで、同好の士というものが身近におらず、ひたすら淋しい日々を送ってき ておりましたので……。こんな風に仰ってくださると、またぞろ甘えて、狂ったよう な長文のお手紙を差し上げてしまうかもしれません。その時はどうぞお許しを。 西崎様 コッパードは、『怪奇小説傑作集』で読んだときは、(『アダムとイブ』ですね。) 「これのどこが怪奇なんだ!えっ!どこがっ!」という感じで、全く感動できなかっ たんですから、我ながら不思議です。今回もコッパードだから読んでみた、のではな く、『魔法の本棚』の他の巻があまりに面白かったので、一応念のために、ぐらいの 気持ちだったんですが……。それから、昨日『英国短篇小説の愉しみ』を手に入でき、 今るんるんしております。るん♪ 深川様 はじめまして。 いくらなんでも、三十年前の谷中銀座にモス・バーガーはないですよぉ〜。(笑) 何を隠そう、私、生まれも育ちも日暮里の生粋の土地っ子です。今はちょっと離れた (1Kmぐらい)本駒込に住んでますが、倉阪様の小説には、いわゆる「谷根千」的な 「人情あふれる下町」(日暮里のいったいどこが「下町」なんだ!どこが!)ではな い仄昏い日暮里・千駄木が描かれていてジモティーとしては、とても嬉しいです。 ちなみに私は寺町で育ったせいか、墓地は全然怖くないです。だから小池真理子さん の『墓地を見おろす家』は残念ながらいまいちピンときません。
中島様 うーん、新たな視点が出て頭が割れそうです。考えてみます。 (「仕事せーよ」という幻聴がするのですが、ちゃんと一日十枚書いてますので>担当者の方)
>倉阪様 何のことはない、「文学における超自然的恐怖」のパクリなんですよ。とに かく超自然的恐怖を喚起させることに成功しておれば、ホラーとしてはOKで あると。超自然現象がなくても、理に落ちていてもぜんぜん構わない。いや、 本音を言うと前者はあった方が嬉しいですが(笑)、後者はほんとにどっちで もいいと私は思っています。 で、ラヴクラフトなんですが、彼の小説がホラーとSFの境界にあるのは事 実で、「ホラーとしては外道」という朝松氏の発言も頷けるんですよ。だけど、 そういうSFまがいのホラーを書いたのはなぜかというと、上記のような超自 然的恐怖を第一義に考えるホラー観があったからなんです。彼にとっては、S Fへの接近は超自然的恐怖追求の一手段でしかない。それは何ともいびつなS F論「宇宙冒険小説に関するノート」を読めば明らかでしょう。 エイクマンがラヴクラフト流のSF的ホラーに対置される、もう一つのホラ ーの進化の可能性であるというのは同感です。この方向に気づかなかったのが ラヴクラフトの悲劇で、それはモダンホラーにまで影を落としているというの が私の考えなのですが、この話は前発言で予告した通りもう少し実証的な形で まとめてみたいので、しばらく時間をください。 怪獣はですねー(笑)、存在自体が理を越えているんですよ。だからSFで はずっと低く見られてきているでしょ。ホラーの方で救済できないなかなあ、 なんて思うんですけどねえ。
東様、およびギャラリーの方 >ええッ、「カストリまがい」はホラーじゃないの? ホラーに高級とか下等とかの >区別を認めるんですか? B級ホラー断固擁護派のはずの貴兄が!? >それに、高尚な文芸作品だろうと読み捨ての赤本だろうと、それが「ホラー」 >(およびそれに類するネーミング)の名を冠され冠されて流通するなら、それは >「マーケット」と呼ばれてしかるべきでしょう? これはすでに撤回した仮説がらみなのでレスを迷ったのですが、誤解されると困る ので書きます。もちろんそれはホラーだし、マーケットではありました。しかし、 「ラヴクラフトから見れば」眼中に入っていなかったという文脈でした。いや、こ の件については本当に仮説を撤回しているわけですが。ただ、「B級ホラー断固擁 護派」なのは主としてホラー映画でして、小説もまあB級は嫌いではないのですが、 やはり文章や芸術性にこだわるところはありまして、トータルするとどうなのか自 分でもよくわかりません(これはまったく発展性がないな)。 ついでに言うと(誤解されると嫌なので)、「ラヴクラフトがホラーの人ではなか った」とか「当時ホラーのマーケットはなかった」とか、そういうことを主張した かったわけではありません。 ラヴクラフトのジャンル意識(帰属意識)はどうだったのだろう? それは現在と 質的に同じものだろうか? ラヴクラフトにはやはりホラー以外の要素もあったの ではないか? ホラーのジャンル・マーケット的成熟が最も遅れた(まだ同意は得 られておりませんが)のはなぜだろう?(以下略) と、いろいろ疑問と仮説が浮 かぶもので、試行錯誤を繰り返しながら書いております。むろん、反論があって 「こりゃ無理筋かな」と判断した場合は取り下げますし、現にそうしております。 気分としては、仮説を積んだり崩したりしながら真相に迫ろうとする名探偵なの ですが(笑)。
>ホラーの流れはイギリス系の 「英米ホラーの」に訂正します。
中島様 「ホラーという言葉に対する思い入れの差」というよりも、同じ超自然的恐怖原理主義者 でもツボの部分に差異がありますよね。そのあたりを確認しておくのも有意義かなと思い ましたので補足します。 「ラヴクラフトがホラーの人でなければ誰がホラーの人なんだ」と問われれば(文脈が違 いますが)、やはりロバート・エイクマンでしょうか。ただ、それだと上品すぎるので、 エイクマン的な世界に血を降り注いで不条理の味付けをしたような感じとでも申しましょ うか、たぶんそのあたりに私の本格ホラーのイデアがあると思います(曖昧ですが)。 理論的には「スーパーナチュラル」「理に落ちない」「現実を侵犯する」の三つが構成要 素です。 で、極めて大ざっぱですが、ホラーの流れはイギリス系のゴーストストーリーとアメリカ 系の怪物小説に二分され(ほんとに大ざっぱですが)、どちらにツボがあるかで微妙にホ ラー観が変わってくるのではないでしょうか。ラヴクラフトに関しては「アウトサイダー」 や「虚空に独り」のような実存的な暗さを感じさせるものが最も好きで、狂気や憑依など 非神話的部分にわりと反応します。邪神ではヨグソトースやアザトースなど名前はついて いても「わけがわからない系」が好みで、Cthulhuはどうでもよかったりします。つまり、 むろん偉大なホラー作家で私も大きな影響は受けておりますが、ラヴクラフトの「理」の 部分については好きなのかどうなのか、ちょっと判じがたい部分があるんですね。ダーレ ス以降の体系化された神話作品にはさらに違和感が募ります。それでこだわっている部分 もあるような気がするので、補足しました。 最後に、これは私の主観的世界なので怒らないでほしいのですが(東さんも)、怪獣とい うのは形が定まっていて名前がついている、ゆえに「理」であり、ホラーよりSFにシフ トしている・・・ああ、怒らないでください(汗)。
東様、中島様 契機になった朝松発言にはもはや力点はなく、そこから派生したラヴクラフトおよび 近代的ジャンルとしてのホラー・マーケットの成熟という問題に私の関心は移ってき ました。ですから、ラヴクラフトの帰属意識の問題およびジャンル意識の問題はこれ 以上発展性もなさそうなので、「ホラーの人」でOKということにします。 (ちょっとホラーという言葉に対する思い入れの差も関わっているようですし。だい ぶ慣れたけど「ホラー」の「ホ」の字が引っかかるんだよなあ) ただ、ラヴクラフトという大きな仕事をした作家は一個の球体と見なし、さまざまな 角度から光を照射する必要があると思います。ちょっと脱線ですが、いくら実証的な 研究を積んで一次資料を引用しても(これはオーソドックスな近代文学研究のアプロ ーチですが)全体像の把握にはつながりません。作家が書簡などで本音を書いている とは限りませんし、本音を書いているつもりでも実は違っていたりします(我が身に 照らすとよくわかる)。ゆえに「深層のダイナミズム」とでも称すべきものまで射程 に入れなければならないわけです。で、ラヴクラフトにはいろいろな光を当てること が可能で、まともに首を突っ込んだら一生を棒に振りかねないので(笑)、ここでは SFとの関係に絞ってみます。 ラヴクラフト全体としては「ホラーの人」でも、やはりSF的な「理」の要素があり、 のちに体系化されたCthulhu神話(コード型の作品を想定)は本格ホラーよりSFに シフトしている部分がある。これが私の認識です。SFの文脈で「ラヴクラフトは科 学合理主義者だった」と語られることがありますが、これではあまりにポジティヴな イメージになってしまいますね。そうではなくてもっとネガティヴな、ホラーのバイ アスのかかった科学合理主義です(もっとうまい表現はあると思いますが)。だから こそ「理」という点では共通するオカルトも受容しているのではないかと考えます。 神話を完全に体系化したのはラヴクラフトではありませんが、怪しげな系譜図や偽史 を作るなど体系化への意志は見えますね。これは「理」であるし、だいたい邪神に名 前をつけるという行為も「理」です。これは私の感覚ではホラーよりSFに近いんで すよ。つまり、トータルとしては「ホラーの人」でもSF的な要素も持っていた(実 際にたとえ全体としては批判的でもSFの影響もあるはず)。ことにCthulhu神話に はそれが発露している部分があり、それがゆえにのちにCthulhuスペース・オペラな どが書かれる。ついでに言えば、朝松氏のコード型のCthulhu神話もここに連なる。 という具合につながるのですが、また粉砕されるかもしれません(笑)。 ジャンル・マーケットの件は、何度も書きますが「近代的ジャンル・マーケットの成 立に関してはホラーが最も遅れた」という点に眼目があります。朝松発言およびラヴ クラフトのジャンル意識の問題から派生したものですが、もはやこちらのほうに興味 が移っています。これにコンセンサスが得られたら、さらに別の仮説を用意している のですが(笑)。要するに、ジャンル意識の問題とマーケットの成熟の問題は確かに 過程では私も混乱していましたが、分けて考えてもらいたいのです(と言うより、ジ ャンル意識はもういい)。他のジャンルとのからみ(ホラーが遅れた)というのは、 もっと原理的・世界観的なことを考えているのですが。先に書いてもいいんだけど、 疲れたのでこの辺で。
誰がホラーの人なんだ! というのが正直な実感です。 >倉阪様、東様 引用すると膨大な量になるので私なりにまとめてしまいますが、今回書簡を ざっと読んだ限りではラヴクラフトは、 ┌─超自然的小説─┬─幻想小説 │ │ 想像力を主題にした文学─┤ └─怪奇小説 │ └─SF というようなジャンル観を持っていたようです。そして、自分は怪奇小説作 家であると位置づけていました。 >> それじゃあラヴクラフトは「ホラーの人」とは言えないじゃないか、と突っ込ま >> れそうですが、それは早計です。なぜならば、「文学における超自然的恐怖」の名 >> 高い冒頭部を一読すればお分かりのとおり、そうした「超自然小説」のうちに何よ >> りもラヴクラフトが求めたもの、主眼としたものは「未知なるものへの恐怖(と畏 >> 怖)」だったからです。 まったくその通りだと思います。SFを論じた「宇宙冒険小説に関するノー ト」にしても、三流SFをまともな怪奇小説にするのはどうしたらいいかとい うような内容で、実質的には怪奇小説論。SF論としては疑問の多いものです よね。 倉阪さんのおっしゃる質や執筆姿勢の高低については、主として形式の問題 であるジャンル意識とは区別しなくてはならないのではないかと思います。あ くまでジャンル内の質の高低と捉えるべきでは? そのような質の高低は、も ちろんラヴクラフト・サークル内にも存在しますしね。 コズミック・ホラーを新しいジャンルとして立ち上げたのは、ラヴクラフト よりダーレスでしょう。小谷真理氏の説は、おもしろいけど検証が甘いと私は 思います。ラヴクラフトは「文学における超自然的恐怖」の中では(たぶんそ れ以外の文章でも)、cosimic horrorを恐怖の質を表す言葉としてしか用いて いないはずです。しかもそれはsupernatural horrorを、本質を明確にするため に言い替えているだけではありませんか。したがって、ラヴクラフトがジャン ルを立ち上げようとしたというなら、それはコズミック・ホラーではなくホラ ーでしょう。超自然的恐怖を喚起することを第一義にした文学としてのホラー です。そう、彼こそは世界で最初の超自然的恐怖原理主義者だったのです(笑)。 この話題は今回の朝松氏の発言に対する違和感に関連するとともに、川島さ んのご期待にもちょっとだけ応えられそうなので、また改めて。
中島様 ナイスな実証的フォロー、御苦労様です。 小生の下の書き込みは、これを拝見する以前に書いていたのですが、合わせ技一 本、てな感じですか(笑)。 倉阪様 >ゆえに、当時のジャンル・ホラーとは相容れない部分があり、帰属意識としては >「ホラー」ではなくラヴクラフト・サークルだった。 もはや、どうでもいいことかもしれんが……ラヴクラフト・サークルの面々が書 いていたのは「ジャンル・ホラー」とは截然と区別されるようなものだったのです か?
>ラヴクラフトが書いていたのは格的に上のほうだけですよね。下のほうはカスト >リまがいのものでしょう? では、19世紀イギリスのペニー・ドレッドフルは >確立したホラー・マーケットだったのでしょうか。 ええッ、「カストリまがい」はホラーじゃないの? ホラーに高級とか下等とか の区別を認めるんですか? B級ホラー断固擁護派のはずの貴兄が!? それに、高尚な文芸作品だろうと読み捨ての赤本だろうと、それが「ホラー」 (およびそれに類するネーミング)の名を冠されて流通するなら、それは「マーケ ット」と呼ばれてしかるべきでしょう? >私は他のジャンルとのからみでホラーを外から見ている部分があるわけです。で、 >東さんは内ばかり見ている。おかげで噛み合わないんですよ。 こっちこそ「ちょっと待ったー」(笑)。鬼さんのいう「他のジャンルとのから み」ってのは、ホラーに隣接する「SF」や「ミステリ」や「ファンタジー」のこ とでしょう? それを小生が認識していないとでも? 小生の基本スタンスは、広 義の「幻想文学」なんですよ? その中には当然のことながら、右のような隣接ジ ャンルは含まれていますが、評論家として現在主眼を置いているのが「ホラー」だ から「ホラー評論家」として、ホラー・サイドからの発言をする……ってだけのこ と。別にホラーのことだけ考えているわけでも、そこしか見ていないわけでもない んですが……。 また今回の件では、そういう「他ジャンルとのからみ」なるものが、作家個人の 「ジャンル意識」とは基本的に無関係であろうと思うから、特にコメントしないだ けのことです。鬼さんのいう「ジャンル帰属意識」ってのは、小生からみると、た んに作家個々の「業界」内のポジショニングの謂なのかと思えてしまうのですがね え……。 マーケットが「成熟」しないと、ジャンル帰属意識が生まれないのですか? そ れって、そうした数値に還元される問題なの?? いったい「何人」の作家がホラ ーでメシを食えて、「何人」の読者がついたら、晴れて「ジャンル意識」なるもの が誕生するのでしょうか? そういう意味では、小生から見ると、むしろ鬼さんのほうが「ジャンル小説」と いう現在の日本でもかなり相互に人脈の交錯する(笑)狭い世界の「内ばかり見て いる」ように思えてしまうのですが……これって、気のせい?
おっととと、やっちゃったよ、無改行。 すいません、前のは削除してください。>管理人様 倉阪様 いや今回は「視点とスタンス」の違いというよりも、鬼さん発言に「?」と感じ る部分が多いので突っ込んでいるだけなのですがね、小生は(苦笑)。 そもそもここで使用されている「ホラー」という言葉の定義からして、中島氏& 小生と鬼さんでは、どうやらズレてるみたいだし。鬼さんは現在日本で流通してい る狭い意味での「ホラー」を考えているようだけど、当時の認識としては「怪奇幻 想小説」もしくは「超自然小説」とでも呼ぶべきものだったはずで、我々、という か少なくとも小生はここで、そういうニュアンスでこの言葉を用いています。 それじゃあラヴクラフトは「ホラーの人」とは言えないじゃないか、と突っ込ま れそうですが、それは早計です。なぜならば、「文学における超自然的恐怖」の名 高い冒頭部を一読すればお分かりのとおり、そうした「超自然小説」のうちに何よ りもラヴクラフトが求めたもの、主眼としたものは「未知なるものへの恐怖(と畏 怖)」だったからです。 ラヴクラフトが草創期のSFや、ダンセイニ風ファンタジーに示した関心も、す べてはそこに発しているわけで、事実、彼が手がけたファンタジー系作品や最晩年 のSFもどき(笑)を見ても、そこに見いだされるのは「怪奇」や「恐怖」や「ア ウトサイダーの悲哀」であって、当時のSFの主流を占めていた脳天気なスペオペ や未来小説の類とも、純粋なファンタジー(こういう言い方はまたそれで問題だけ ど)ともハッキリ一線を画していると思われます。 その意味で、ラヴクラフトを「ホラーの人」と呼ぶのは、至って正当なことだと 小生は考えます。 そういうラヴクラフトの営為を百も承知のはずの朝松氏が「書いている本人は、 おれはホラーだとか、おれはSF作家だとか、強くは意識してなかったと思います」 などと自分に引きつけてなのか、粗雑極まりない、しかも多分に政治的な(標的は 「これはホラーではない」とかうるさいことを言う評論家かいな!?)物言いをする こと自体が、そもそも問題なわけですけどね。何も鬼さんが、苦労してその尻拭い をする必要はないでしょ?(笑) ちなみに小生があのインタビューについて特にコメントしないのは、作家放談も しくは与太話のレベルを出るものではないので、わざわざ目くじら立てるにも値し ないと思ったからです。「偏狭なホラー・マニアの中には、ゲーム関係のクトゥル ー物はあえて目に入れようとしない人もいますけど」とかね(失笑)。そんなヤツ どこにいるの!? って感じでしょ。しかもそれを、朝松健が言ってはいかんだろう ……とね。 (つづく)
倉阪様 いや今回は「視点とスタンス」の違いというよりも、鬼さん発言に「?」と感じる部分が多いので突っ込んでいるだけなのですがね、小生は(苦笑)。 そもそもここで使用されている「ホラー」という言葉の定義からして、中島氏&小生と鬼さんでは、どうやらズレてるみたいだし。鬼さんは現在日本で流通している狭い意味での「ホラー」を考えているようだけど、当時の認識としては「怪奇幻想小説」もしくは「超自然小説」とでも呼ぶべきものだったはずで、我々、というか少なくとも小生はここで、そういうニュアンスでこの言葉を用いています。 それじゃあラヴクラフトは「ホラーの人」とは言えないじゃないか、と突っ込まれそうですが、それは早計です。なぜならば、「文学における超自然的恐怖」の名高い冒頭部を一読すればお分かりのとおり、そうした「超自然小説」のうちに何よりもラヴクラフトが求めたもの、主眼としたものは「未知なるものへの恐怖(と畏怖)」だったからです。 ラヴクラフトが草創期のSFや、ダンセイニ風ファンタジーに示した関心も、すべてはそこに発しているわけで、事実、彼が手がけたファンタジー系作品や最晩年のSFもどき(笑)を見ても、そこに見いだされるのは「怪奇」や「恐怖」や「アウトサイダーの悲哀」であって、当時のSFの主流を占めていた脳天気なスペオペや未来小説の類とも、純粋なファンタジー(こういう言い方はまたそれで問題だけど)ともハッキリ一線を画していると思われます。 その意味で、ラヴクラフトを「ホラーの人」と呼ぶのは、至って正当なことだと小生は考えます。 そういうラヴクラフトの営為を百も承知のはずの朝松氏が「書いている本人は、おれはホラーだとか、おれはSF作家だとか、強くは意識してなかったと思います」などと自分に引きつけてなのか、粗雑極まりない物言いをすること自体が、そもそも問題なわけですけどね。何も鬼さんが、苦労してその尻拭いをする必要はないでしょ?(笑) ちなみに小生があのインタビューについて特にコメントしないのは、作家放談もしくは与太話のレベルを出るものではないので、わざわざ目くじら立てるにも値しないと思ったからです。「偏狭なホラー・マニアの中には、ゲーム関係のクトゥルー物はあえて目に入れようとしない人もいますけど」とかね(失笑)。そんなヤツどこにいるの!? って感じでしょ。しかもそれを、朝松健が言ってはいかんだろう……とね。 (つづく)
中島様 >あたかも弁護するかのような姿勢よりも(文脈を無視するなら弁護にはなりよう >がないので)、逆に「朝松氏の発言の妥当性はさておき……」と話題を区切る配 >慮が必要なのでは? まことにそのとおりです。直観が先にあって、後から試行錯誤を繰り返しながら理 屈で埋めていくというタイプなので(これは中島さんや東さんと逆なんですが)、 どうも申し訳ないです。 (余談)そうか、だからコリン・デクスター的なミステリがツボの一つなのか。
ありがとうございました 投稿者:倉阪鬼一郎 投稿日:09月05日(日)02時47分46秒 tokyo17-13.m.nttpc.ne.jp
中島様 本来ならこういう作業をすべきところを省略してしまって恐縮でした。 >営利的に考えた場合、W・T誌に寄稿することで最も不利な点は、原稿を突き返さ >れたらもうどこにも売り込む先がない、ということです──なぜなら、怪奇小説の >分野の雑誌は同誌しかないからです。 そうなんです。ラヴクラフトの意識はこうだったんです。いかにパルプのホラー・マ ーケットはあっても、彼のイデアにかなう雑誌は一つだけだった。そこでも原稿を突 き返されたりしていた。要するに「アウトサイダー」、孤独な怪奇小説家だったので す(涙)。それって「(当時の)ジャンル・ホラーの人」とは質的に違うでしょう。
>倉阪様 うざったい突っ込みで恐縮ですが……。 ある発言を文脈から切り離して論じることに、果たして意味があるのでしょ うか。場合によっては、それこそ我田引水、発言者の意図を無視することにな りかねない危険もあると思うのですが。 あたかも弁護するかのような姿勢よりも(文脈を無視するなら弁護にはなり ようがないので)、逆に「朝松氏の発言の妥当性はさておき……」と話題を区 切る配慮が必要なのでは?
……ラヴクラフトに訊け! というわけで、ご本人の肉声を書簡集から抜粋 してみました。テクストはもちろん国書刊行会の『定本ラヴクラフト全集』第 10巻です。 「営利的に考えた場合、W・T誌に寄稿することで最も不利な点は、原稿を突き 返されたらもうどこにも売り込む先がない、ということです──なぜなら、怪奇 小説の分野の雑誌は同誌しかないからです。(中略)ですが、小説の怪奇性が、 露骨な超自然性ではなくて科学的な想像(中略)に基づくものであれば、少なく とも「SF小説雑誌」(中略)に採用される見込みがかなりあります。(中略) この手のものを書く才能があれば、実際すばらしい市場が開かれていて、しかも 拡大される一方なのです。私自身は、この分野はあまり得意ではありませんが、 それでもためしに幾編か書いて編集者の反応を見たいと思っています」 (1930年10月24日付、エリザベス・トルドリッジ宛) 「……私としても、できることなら、もっと多彩な作品を書きたいのです──是 非とも金が入り用ですので──ところが、怪奇ものから抜け出そうとすると必ず、 忌々しいことにまったく霊感が涌かなくなるのです。これは、私にとって随分不 幸なことです。なにしろ、ありとあらゆる市場の中で、怪奇ものの市場が最も狭 いのですからね。貴方は「SF小説」──「火星旅行」ものです──に関心が深 いですか。その市場は、実際に随分広く──少なくとも三誌はあります。クラー ク・アシュトン・スミスなどは、この分野に押し入って相当な成果を収めていま すよ……」 (1931年1月30日付、ロバート・E・ハワード宛) 「もしかしたら、私の作品は新鮮味を欠きだしたのかもしれません(中略)もし そうであれば、私は筆を折るほかありません。才能の面でも志向の面でも小説を 書くことができる分野は、怪奇小説だけだからです。(中略)それはとにかく── 怪奇小説と空想科学小説の境界には、私にも手を染めることができそうな領域が あるのです。その証拠に──「狂気山脈」は、もっぱらこの領域に属するものな のです」 (1931年8月7日付、J・ヴァーノン・シェイ宛) そんなわけですから、ラヴクラフトの中ではジャンルとしても市場としても 怪奇小説とSFははっきり分かれていて、自分を「怪奇小説作家」と位置づけ ていたと捉えるのが自然でしょう。 この「怪奇小説」は今のホラーと一緒なのかとか、まだまだ検証しなくては ならない点はありますが、眠いので今日はもう寝ます。
>ゆえに、ラヴクラフトの帰属意識は「ホラー」ではなく、ラヴクラフト・サークル >だったのではないか。 言葉が足りませんでした。ラヴクラフトの意識としては、怪奇幻想文学の衣鉢を継ぎ より高次なコズミック・ホラーを開拓しようとした芸術家だった。ゆえに、当時のジ ャンル・ホラーとは相容れない部分があり、帰属意識としては「ホラー」ではなくラ ヴクラフト・サークルだった。以上に訂正します。どうも「最初に直観ありき」の人 なので、ごちゃごちゃして恐縮です。 それから、30000hitsおめでとうございます。ラヴクラフトが現代の日本にいて ネット環境にあったら、毎日「幻想的掲示板」に長文の書き込みをしているかもしれ ませんね。
>実際に存在していた他のジャンルのパルプについては書いていないじゃないですか。 「詳しく書いていない」に改めます。
ちょっとわかりにくくなっているので、整理します。 「ラヴクラフトには、おれはホラーだという意識はなかった」という朝松発言に 中島氏と東氏が怒った・・・じゃなくて悲しく思ったりげんなりしたところから 話が始まっているのですが、私は文脈を抜きにして一面の真があるのではないか と直観したもので、いろいろ書き綴ってきたわけです。で、ジャンルの規模に理 由を求めたのはちょっと無理があるので撤回します(ただ、ジャンルの問題につ いては撤回しない部分もあるので後述)。また、パルプ雑誌と普通の雑誌を大雑 把にまとめている点など、ほかにも不備な箇所がありました。 さて、本題ですが、確かに当時ホラーのジャンル・マーケットは成立しており、 ジャンル意識を有する作家や編集者もいた。しかし、ラヴクラフトはパルプ雑誌 に寄稿していたものの自分がパルプ作家とは思っていなかったし、編集者との折 り合いも悪かったし、寡作も手伝って商売にもならなかったし、パルプのホラー マーケットとは相容れない部分を有していた。コズミック・ホラーの成立につい ては繰り返しになるので記しませんが、小谷氏の指摘するように新たなジャンル を作るという意識があったのではないか。ゆえに、ラヴクラフトの帰属意識は 「ホラー」ではなく、ラヴクラフト・サークルだったのではないか。以上が仮説 ですが、もちろんこれはホラー作家としてのラヴクラフトの評価を貶めるもので はありません。いまふと思ったんですけど、昔の私が「本邦唯一の怪奇小説家」 を名乗っていた心性と一脈通じるものがあるかもしれません(そうか、だから異 常に反応してたのかな?)。 話変わってジャンル・マーケットですが、これは大幅な修正はありません。人類 には恐怖を好む因子があるから(大仰だな)、ホラーの歴史は古い。しかしなが ら、近代的なジャンル・マーケットとして成熟するのは最も遅れた。パルプはホ ラー・マーケットではあったものの、成熟する手前で失敗したと考えるほうが妥 当。より近代的なジャンルであるミステリとSFのほうがマーケットの成熟は先 で、ホラーは後塵を拝した。国によってジャンルの発展は違うけれども、アメリ カも日本もホラーが最も遅れたという点では同じ(むろん時差あり)。ジャンル ・マーケットが成熟すると「浸透と拡散現象」が起きる。ひと足早かったアメリ カではすでに起きた。日本はいままさにその渦中にある。 ざっとこんな認識なんですけど、どんなものでしょうか。
東様 どうも、視点とスタンスが違うので噛み合いませんねえ。 要するに、「ラヴクラフトにとってのジャンル意識がホラーの人だったかどうか」が 朝松発言がらみで問題になっていたわけでしょう? ですから、 >「規模の問題」って……現代の出版マーケットと当時のそれを比較して、どうするの? >時代情況や国柄、出版システムその他もろもろの条件が異なるマーケットを同列に論 >じようとすること自体が、そもそも無意味だと思いますし、それと「ジャンル意識」と >は何の関係もないのではないですかね。 これはそもそも朝松発言のピントがずれてたからこうなるんです(笑)。 ただ、私はラヴクラフトを点(球体)的にとらえて、現在とどうジャンル意識が違ったか という部分に興味を引かれたので引っ張ったわけですが。 >だいたい「ジャンル・マーケット」としてのホラーが確立していなければ、『ウィアー >ド・テイルズ』が何十年も存続したり、競合誌が輩出したりするはず、ないでしょう? ちょっと異論があります。ラヴクラフトが書いていたのは格的に上のほうだけですよね。 下のほうはカストリまがいのものでしょう? では、19世紀イギリスのペニー・ドレッ ドフルは確立したホラー・マーケットだったのでしょうか。むろん、ホラー・マーケット が成立していたのは事実ですが、確立と断定するのはどうでしょう。 >単行本のマーケット? 短編作家が単行本を出せない事態は、別にパルプ期に限らず、 >それこそ米国におけるモダンホラー隆盛期だって五十歩百歩だったはずです。 ほかのジャンルより遅れたというところに力点があるんです。30年代の話をしますと、 ミステリではクライム・クラブとか単行本市場が成熟してますよね。一方SFとホラー は雑誌マーケット中心です。40年代に入るとホラーのほうが陰ってきて、50年代に なると単行本市場が花開いたSFに水をあけられます。やはりホラーが最も遅いでしょ う。 で、それが、ラヴクラフトは「ホラー」というジャンルよりも「雑誌仲間」や「ラヴク ラフト・スクールの同志」のほうの帰属意識が高かったのではないかという仮説につな がるんですが。 >ついでに言うなら、〈異形〉の人たちが、〈異形〉が売れた!→わーい短編の時代が >来るぞー、と浮かれているのは、あまりにも楽観的すぎます。 ほんとについでなのでノーコメント(笑)。 >ラヴクラフトに関していえば、ラヴクラフト「でさえ」食えなかった、のではな >く、ラヴクラフト「だからこそ」食えなかった、のではないかと小生は考える次 >第。 なるほど、これは納得。 >おいおい〜、日本版関係者がそんな無責任なこと言っていいのかー。 >「パルプ雑誌」の項のどこがどのように「華々しい」記述なのかぜひ御教示ください。 ちょっと待ってくださいよ。私は他のジャンルとのからみでホラーを外から見ている部分 があるわけです。で、東さんは内ばかり見ている。おかげで噛み合わないんですよ。 だって、ホラーのパルプを「華々しく」取り上げていて、実際に存在していた他のジャン ルのパルプについては書いていないじゃないですか(当たり前ですが)。そういう単純な ことを言いたかっただけです。 疲れたのでこの辺で(以下の方ご容赦)。
倉阪様 「規模の問題」って……現代の出版マーケットと当時のそれを比較して、どうする の? 時代情況や国柄、出版システムその他もろもろの条件が異なるマーケットを 同列に論じようとすること自体が、そもそも無意味だと思いますし、それと「ジャ ンル意識」とは何の関係もないのではないですかね。 だいたい「ジャンル・マーケット」としてのホラーが確立していなければ、『ウ ィアード・テイルズ』が何十年も存続したり、競合誌が輩出したりするはず、ない でしょう? 単行本のマーケット? 短編作家が単行本を出せない事態は、別にパルプ期に限 らず、それこそ米国におけるモダンホラー隆盛期だって五十歩百歩だったはずです。 だからこそ、ファン出版と大差ないようなマイナー系ホラー小説誌やオリジナル・ アンソロジー群が頑張っていたのだと思いますがね。 ついでに言うなら、〈異形〉の人たちが、〈異形〉が売れた!→わーい短編の時 代が来るぞー、と浮かれているのは、あまりにも楽観的すぎます。米国におけるオ リジナル・ホラー・アンソロジーのブームの後に何が残ったか、現状はどうか…… 小生としては、そのあたりも踏まえたうえで、危機感や焦燥感を抱くからこそ、苦 言を呈しているのですがねー。 そもそも「ホラーでメシが食えるか」云々ということでいったら、たとえばアン・ ラドクリフの昔から(まあ彼女自身は閨秀作家だからちょっと違うけど)、ちゃん とメシを食えていた流行作家はいたわけで、それはパルプ期だってモダンホラー期 だって同じようなもの。 ラヴクラフトに関していえば、ラヴクラフト「でさえ」食えなかった、のではな く、ラヴクラフト「だからこそ」食えなかった、のではないかと小生は考える次第。 つまり、当時のパルプの編集者が要求するようなニーズに、ラヴクラフトの作品は、 ある意味高尚すぎて(!)応えてはいなかったから、そして彼は、そうしたニーズ に迎合する器用さや鷹揚さや処世術を持ち合わせていなかったからこそ、ホラーで 専業作家になりそこねた、というのがおそらく実情に近いのでは? ほらほら、何か見えてはきませんか? 時代が変わり、マーケットは変わっても (笑)、同じような悲喜劇が、今もどこかで繰り返されているような……。 だからこそ! 今までジャンル・ホラーにこだわってきた(こだわらざるをえな かった!?)作家諸兄には、それなりの矜持と信念を持ってほしいなと、我々評論家 風情は期待してしまうわけですよ。「これからはクトゥルーと時代ホラーのみでい く!」なんぞと大見栄切ってた方なんか特にね(あ、ちなみに小生も、怒ってなん かいませんよ。穏健派の小生は、怒り甲斐のあるとき以外は怒らないことにしてお りますゆえ……ハッ、中島さんへの「お返事」があああ〜)。 >そりゃ「幻想文学大事典」は「ホラー大事典」ですから華々しく書いてあるでし >ょうけど おいおい〜、日本版関係者がそんな無責任なこと言っていいのかー。「パルプ雑 誌」の項のどこがどのように「華々しい」記述なのかぜひ御教示ください。小生に は、ごく真っ当な(むしろ舌足らずな感もあるくらいの)記述に思えましたが。 >パルプ全体がマーケットという部分がかなりあって それは初期のパルプ・マーケットですね。そこからジャンルごとの分立化が進み、 その結果として『ウィアード・テイルズ』をはじめとする怪奇幻想小説専門パルプ が登場した……という流れだったと思いますが。その過程で、先行する「ミステリ」 や「ウエスタン」や「SF」に対する「ホラー」サイドのジャンル意識が必然的に 高まったとみるのが妥当ではないでしょうか。編集サイド、作家サイド共にね。 >牛ホラーほんとに書いたので近日中に送ります。 おおおー、ありがとうごぜえますだ(感涙)。(←ころっと一転して編集者モー ドに)
>川島様 何だか恥ずかしくて死にそうなんですが(笑)。 私の場合、ご期待に応えるにはホラー以外の知識が決定的に欠如しているん ですよね。絵に描いたような専門バカ。学生時代にもうちょっとまともに勉 強すべきだったなと思わされることが多いです。 まあ、マイペースでぼちぼちやっていきます。 >倉阪様 >> 確かに朝松氏の発言はピントがずれています。ただ、それを問題にするくらいなら、 >> 「セレファイス」の解説の一節「ラヴクラフトが如何にして幼年期を夢幻境の完成を >> モチーフにした幻想ブンガク家から、大衆に理解されかつ愛される〈クトゥールー神 >> 話〉のホラー小説家になったのか(原文ママ)」のほうがよほど問題があると思いま >> す。 セ、セレファイス!……あ痛たたた……これはまた痛いところを(笑)。い やあ、完結していない小説を誉めたりするものではないですね、ほんと。 発言内容から言えばおっしゃる通りですが、発言者のホラー・ジャンルにお ける位置を考えると、問題度(←変な言葉……)は一挙に逆転するんですよ。 編集者時代からラヴクラフトの紹介に尽力され、作家になってからもクトゥル ー神話を書き続けられている朝松氏の発言だからこそ問題にしているのです。 本題の方は、きっちり調べてからお返事したいので間を置きます。
倉阪様 怪奇十三夜購入いたしました。訳あって私はちょっとつまみ読みしただけで、 まず母に読ませています。 表題作の中の御殿坂周囲の描写が現状と異なっていたんで気になっていたんで すが、母が言うにはあれは三十年前(!)の日暮里だそうで。喫茶店もモスバーガ ーも既にありません(モスバーガーは私も存在を記憶していましたから、十五年 ぐらい前まであった筈なのですが)。 日暮里には母の実家があり、私も小さい頃から谷中銀座の辺りを連れ歩かれて いたのです。何だか嬉しかったです。 母が読み終わり次第、奪還して拝読します。詰まらない用件ですみません。
中島様・鬼一郎様 SF誌のインタビューひとつからこんなに議論ができるなんてすごいですね。 インタビューの作り手の立場としては、ひたすら恐れ入る感じです。 かつて自分が編集した本の読者にここまで言わせるとは、朝松さんも編集者冥利に尽きるでしょう。 最近、自分が作っている雑誌の与える影響について、多少は重要に考えてもいいのかも……と思うようになったので、 こういう展開は身にしみます。 私見では、ラヴクラフトとSF、ホラーの関係を論じるためには、ジャンル小説を含めた怪奇幻想文学史の再点検が 必要だと思われます。ファンタジーの案内書でラヴクラフトに一章を割いた小谷さんはえらいと思います。 ああいうようなことが、そこらじゅうで必要になってくるという感じでしょうか。 中島さん、頑張って大評論を書いてください。最近はゴシック・ロマンスも読んでいらっしゃるようだし、 通史的な見方を貫いたホラー論があってもいいのでは、と思います。東もホラー入門を書いているようですが、 入門書にはやはり制約もありますしね。 ちょっと前にもっとレスをちゃんとするようにと鬼一郎さんのお叱りを受けましたが、 何か私、あるいは『幻想文学』そのものに対して御質問のたぐいがあったのでしょうか。 前から言っていますが、頻繁には覗かないので、わかりません。具体的な質問等には 東が応答してくれることになっていますが、彼も忙しいし。どうしても答えのほしい質問は アトリエOCTAまでファクスや電話などいただければと思います。すみません。 酒井様 楽しんでいらっしゃいますか? こういうところを覗いてみると、はがきを書く時間くらいはあることが よくおわかりになるのではないでしょうか。いつも読者カードを返してくださる方とか、注文をくださる方の お名前はしっかり頭に入っていますから、対応も自然と友達ふうになりますし、つい手紙を書いたりもするわけです。 お会いしたことはないけれど、『幻想文学』を愛読してくださる方は、みんなみんな大事な心の友です。
ラヴクラフトおよびクトゥルーに関しては、ホラー、SF、ファンタジーそれぞれの 文脈で言及がなされています。最も我田引水がはなはだしいのは「怪奇小説傑作集3」 の平井呈一解説で「じつはこのコスミック・ホラーがきっかけになって、今日のSF が誕生したともいえるのであります」というのはいくらなんでも無理でしょう。 さて、ファンタジー・サイドでは小谷真理「ファンタジーの冒険」(ちくま新書)に かなり突っ込んだ記述があります。そのなかに、「ひとつのジャンルとして育てよう としていたふしがある」という指摘があるのですが、これは首肯できるのではないで しょうか。ちょっと書き忘れたのですが、「文学における超自然」で言及している作 家のうちラヴクラフトの「コズミック・ホラー」に多大な影響を与えたのはダンセイ ニとマッケンですよね。これはどちらもホラー作家というより幻想作家でしょう。さ らに下にも書いたSFという触媒が加わる。むろん内的要因も含めてほかの要素も多 々ある。こうして独創的なコズミック・ホラーが生まれたわけです。ホラーの通史的 に見ればむろん大きな存在だし、ラヴクラフトも自覚的であったわけですが、ホラー の土壌だけから生まれたわけではないはずです。さらに、帰属意識という点では、や はり「ラヴクラフト・サークル」がいちばんでしょう。精神的交流が深かったクラー ク・アシュトン・スミスもR・E・ハワードもホラー作家のレッテルは貼れない人で すし、SFのほうが濃い人もたくさんいます。ですから、今日のジャンル意識とは違 っていたと考えるのが妥当ではないかと思います。 しかし、「ホラーの文脈では」と問われたらもっといくらでも答えようがあるわけで、 確かに朝松氏の発言はピントがずれています。ただ、それを問題にするくらいなら、 「セレファイス」の解説の一節「ラヴクラフトが如何にして幼年期を夢幻境の完成を モチーフにした幻想ブンガク家から、大衆に理解されかつ愛される〈クトゥールー神 話〉のホラー小説家になったのか(原文ママ)」のほうがよほど問題があると思いま す。いくらなんでも我が田に水を引きすぎでしょう。
中島様 >ラヴクラフトが「はじめに小説ありき」と考えていたかどうかは、かなり疑問ですね。 そういうことではなく、ラヴクラフトの作品は評論ではなく小説なんだから、当然「は じめに小説ありき」でしょうと申し上げたわけです。「文学における超自然」とクトゥ ルー神話とでは意識の批評性が違うでしょう。 >だいたい、元発言は「ホラーの文脈では、クトゥルーはどういう位置になる >んでしょう」という大森さんの問いに対する応答の一部ですよね。クトゥル >ー神話はラヴクラフトがそれまでのホラーの歴史を踏まえた上でホラーの決 >定版のつもりで書いたものでしょう? これも異論があります。ラヴクラフトのプレテクストは多岐にわたっていて難 しいのですが、ホラーだけに限定されるものではないでしょう。実は大昔「SF の本」にラヴクラフト論を書いたことがあってそのあたりを少し考えたのですが (さっきめくってみたら大森さんが本名で書いてるし「SFセミナー」には「幻 想文学」編集長が出てるし、いろいろと面白かったです)、SFとホラーのパル プマーケットの発展ってかなりパラレルですよね。「文学における超自然」の陰 に隠れてますがラヴクラフトには「宇宙冒険小説に関するノート」というエッセ イがあります。辛口の批評なんですけど、SFの影響はやはり看過できないと思 います(影響というのは理論的な意識レベルだけじゃないですし)。つまり、 「従来のホラー」と「コズミック・ホラー」の間の触媒としてSF(ほかにもオ カルトや天文学が絡んできますが)が存在しているのでは? ダンセイニを筆頭 とするファンタジーも含めて幻想文学からはそうブレてはいないのですが(ちな みにミステリからの影響は見受けられない)、ホラーに限定してしまうのはちょ っとどうかと思います。
>藤原様 おっしゃる通り、ラドクリフは語りのテクニックに魅力がある作家だと思い ました。語っている内容はつまらないのに、おもしろく読めてしまうんです(だ から、読んでいない人にどこがいいのか伝えるのが難しいですね)。当時のゴ シック以外の小説を読んでいないのでよく判らないのですけど、ミステリーの 元祖というより小説自体の技巧をレベルアップした人ということはないですか? 『老英男爵』なんかと比べるとすごい開きを感じるのですが。 職業的エンターテイメント作家の走りというのは大納得です。いかにも流行 小説でした。私は自分が読んだものの中ではクーンツの執筆姿勢に近いものを 感じましたが、ひょっとしたら70年代にアメリカで流行した女性向けのゴシ ック・ロマンスってこんなのだったのでしょうか。
……落胆してるんです。十代の頃に夢中になって買い集め読み耽った思い入 れのある本の作り手に、手の平を返したようなことを言われて。 正直言って、私は作家になられてからの朝松氏のよい読者ではありませんが、 少女向けジュブナイルの『こわがらないで……』はSFでも伝奇小説でもない、 ホラーとしかいいようのないホラーで、とても良かったです。ああいうハード なホラーをもっと書いて欲しいと期待していたのですが……。 >倉阪様 ラヴクラフトが「はじめに小説ありき」と考えていたかどうかは、かなり疑 問ですね。怪奇作家としての覚悟を熱っぽく語ったり、自分の間口の狭さを誇 るような文章はいくらでもある反面、文学全般の中での自分の位置を語ってい ることはほとんどない印象がありますが。生活のための添削や仲間内のお遊び まで傍証に持ち出すと、完全なジャンル専業作家なんて一人も存在しないので は。 だいたい、元発言は「ホラーの文脈では、クトゥルーはどういう位置になる んでしょう」という大森さんの問いに対する応答の一部ですよね。クトゥルー 神話はラヴクラフトがそれまでのホラーの歴史を踏まえた上でホラーの決定版 のつもりで書いたものでしょう? それを「書いてる本人は、おれはホラーだ とか、おれはSF作家だとか強くは意識してなかったと思います」なんて言わ れたのでは、読み方がぜんぜん違ってしまうではないですか。 結果としてクトゥルー神話は、朝松氏の言っている通りホラーとSFの境界 例になってしまっています。だけど、それは究極のホラーを目指した結果なの であって、それがSFに近づいてしまうところにホラーとSFのイデアの異同 を知る手掛かりにがあるはずなんです。そういう話題こそ、「SFマガジン」 の読者がいちばん読みたいツボなんじゃないかと思うんですけどねえ。
朝松氏の発言を抜きにして、ジャンル・マーケットの件について修正します。 確かに「有って無きがもの」というのは言い過ぎでしたが、少なくともホラーの 単行本市場はありませんでしたよね(ラヴクラフトが好例)。じゃあSFはどう なのかと問われそうなのでパラレルに話を進めますと、SFは50年代に単行本 市場が確立され成熟に向かいます。片やホラーは、少部数のアーカムハウスの活 動があったくらいで、メトカーフやウエイクフィールドなど晩年は困窮した人が やたら目立ちます(涙)。ホラーにおける単行本市場の確立はやはりキング以降、 本邦ではさらにずっと遅れます。ですから、そりゃ「幻想文学大事典」は「ホラー 大事典」ですから華々しく書いてあるでしょうけど、今日とはだいぶ違うでしょう。 パルプ雑誌にはむろん「ウィアード・テールズ」を筆頭とするホラーのマーケット がありましたけど、べつにパルプはホラーの専売特許ではなくSFやミステリもあ ったわけで、現にラヴクラフトもSF雑誌に書いているし、「ウィアード・テール ズ」にはSFも結構載ってます。つまり、パルプ全体がマーケットという部分がか なりあって、その中でラヴクラフトは確かに最もホラーというジャンルを意識して いた人でしょうけど、彼にしてもことに晩年はSF作家の部分が確実に存在してい たのではないでしょうか。その部分を捨象すると昔の「怪奇小説の鬼」に戻ってし まうような危惧も若干感じます。それに、ラヴクラフトはパルプ・マーケットには いたけれどもパルプ作家ではなく芸術家を自認していた人だから(この辺も絡んで くるので頭が割れそうになりますが)、やはり現在の「ホラーの人」とは微妙に違 うんじゃないかと思うんですがねえ。 それから、朝松氏に関してはジャンル・ホラーの中心部分の人という認識はなくて、 かなりSFにシフトしているところはあると思いますよ。理に落ちるオカルトとい うのは、ある意味ではホラーよりSFに近いのじゃないかしら。
ジャンル・マーケットのマーケットの部分を強調するのは文脈的に少しおかしかった かもしれません。ただ、発話者の朝松氏がいる現代日本(キング以降を引き合いに出 したのもやや変)と当時のラヴクラフトのあいだに径庭があることは当然でしょう。 イデアの部分ではなく作家としての帰属意識としては「ホラー」よりパルプ雑誌仲間 やアマチュア・ジャーナリズムのほうが優先していたのじゃないかな? それから、元発言は「書いてる本人は、おれはホラーだとか、おれはSF作家だとか 強くは意識してなかったと思います」ですよね。これはどう考えても一面の真ですよ。 作家にとっては「まず小説ありき」ですから。現にラヴクラフトの作品にはファンタ ジーもあればSFに分類されるものもあるし、SF作家と合作もしているし、内輪受 けのユーモア物も書いてるし(この内輪がホラーに限定されていないことが傍証)、 かなり多面体的な部分があるじゃないですか。 いや、こんなに弁護することはないのですが、どうして立腹するのか腑に落ちない部 分があるので。それに、私があのインタビューを受けたら大森さんの誘導よろしくも っとホラーファンの憤激を買うことを口走ってしまいそうな気がします(笑)。
東様 現在の(キング以降の)マーケットに比べたら「有って無きがもの」でしょう? ラヴクラフトだって食えなくて添削の仕事をしていたくらいですから。ホラーは 歴史こそ古いけれども、ミステリやSFのような近代的ジャンルに比べるとジャ ンル・マーケットの成熟が遅れたというのはわりと基本的な認識だと思うのです が。まあこのあたりは、上部構造(ジャンルに関する意識)と下部構造(作家が 食えるかどうかとか)いずれに力点を置くかで見解が異なってくるかと存じます。 いや、そういうメンドクサイ話じゃなくて、当時のラヴクラフトが「四派対抗カ ードゲーム」のホラー代表で出るとか(笑)そういうことは想像しづらいよと、 その程度のことを言いたかったのですが。 話変わって、牛ホラーほんとに書いたので近日中に送ります。
この二日間、自主的缶詰め状態に入っておりました。 久々に浮き世に顔を出せば……ここは相変わらずだなー。 かわかみ様 DASACONの際はどうも。お褒めにあずかり嬉しいです。寮さんとは全くの 初対面だったので、こちらとしても「スリリング」な体験でした。 会場でフクさんにも指摘されたのですが、対談というよりインタビュアー的スタ ンスになってしまうのは、まあ長年の習い性というか、自分の意見を人前で声高に 主張するのが苦手というか……(うわっ、なぜ石が飛んでくるんだあ〜)。 芦辺様 >ひょっとしてあれって故意? いえいえ、とんでもない(笑)。移動中の携帯は切れやすいのですよ。 酒井様 ううう、ありがたいお言葉(泣)。 中島様 いやお怒りはごもっともなれど、あの方はどこかのバカな評論家とは違って、S Fとは表だって喧嘩しない主義らしいので(笑)。 それはともかくとしても、作家というのは本能的にジャンル分けに拒否反応を示 す生物ですからね、当然の反応なのでは。ただ、ジャンル・ホラーの旗手の一人が 公言すべきことじゃなかろうとは思いますし、嗚呼情けなや……とは思いますが。 でもまあクラニーの反応を見ても分かるように、ホラーかSFか、なんてのは作家 サイドにとってはどうでもいいことなんですよ、きっと(苦笑)。 倉阪様 >確かにジャンル・マーケットとしてのホラーは有って無きがごときものでしたか >ら、ラヴクラフトに今日のような「ホラーの人」という意識はなかったはずです。 ちょ、ちょ、ちょっと待ったー! パルプ・マガジン隆盛期というのは、ジャン ル・マーケットとしてのホラーがバリバリに意識された時代であることは常識じゃ ないかー(たとえば『幻想文学大事典』の「パルプ雑誌」の項を参照すれば一目瞭 然)。だからこそ、そうした流れを受けて、ラヴクラフトは「文学における超自然 的恐怖」を書いたんじゃないか! まったくもー。ハッ、「もー」といえば牛、牛、 牛……。(←そっち方面でも、かなり追いつめられているらしい)
ラドクリフは今でいえばスリルとサスペンスの作家ですね。プロット/伏線の導入 や、これからどうなるという興味で読者を引っぱっていくテクニックの確立という 点で、広義のミステリーの源流として読み直されるべきと考えています。 たしかに現代の目から見れば、のんびりしたテンポは手ぬるく思えますし、展開も 見え見えですが、当時の(とくに女性の)読者はラドクリフ夫人の語りのテクニッ クに酔い、危難に瀕したヒロインと共に甘美なスリルに震えたはずです。(ジェー ン・オースティンの『ノーサンガー・アベイ』のヒロインのように)。 中世の城や修道院、東洋といったエキゾティックな舞台をはなれて、日常的な枠組 みから出発していることも見のがせません。ラドクリフの犯罪ミステリーは、レ・ ファニュ、コリンズらのヴィクトリアン・スリラーへとそのまま続いています。 また、上流階級の文人趣味やロマン派の文学的野心とは一線を画していたように思 えるラドクリフ夫人は、職業的エンターテインメント作家のはしりといってもいい のではないでしょうか。 中島さま 『ケイレブ・ウィリアムズ』は、ある意味ひじょうにモダンな作品だと思っていま す。ご感想楽しみにしています。
ウルフとラドクリフ 投稿者:西崎 憲 投稿日:09月02日(木)11時22分46秒 dp0-67.tokyo2.linkclub.or.jp
こんにちは、みなさん 藤原さん そうですね。利益のためにやっていることなので、最初から赤字で構わないと いう出版社は確かにないでしょうね。一応企画を持ちこむ際にはそういうことも 考えるのですが、趣味的な本のことを語っているとついそういうことを忘れてし まいます。翻訳者の気楽さということでしょうか。 酒井さん ヴァージニア・ウルフの評伝を読んでいたら、ウルフも「ユドルフォの怪」を 読んでいるのですね。「ひじょうに面白い」といったことを日記に記しているよ うです。何だか妙な組み合わせですが、見るべきところのある本であることは確 かのようです。コッパード面白く読んでくださっているのですね。ありがとうご ざいます。これからもよろしくお願いいたします。 西崎 拝
中島様 わかりやすい譬えと言ったのはホラー大賞のくだりで、モダンホラーの過激派・穏健派 というくくりが妥当か、また、過激派の代表がケッチャムとコージャでいいのか、その あたりはややすっきりしません。おかげで全体の図がすっきりしないのではないでしょ うか。なお、ずーっと前から部屋にあるカイザー「グロテスクなもの」を読んでいない ことに気づき、そちらに移っています。 もう一つの問題は「責めの東」の領域ですが(笑)、私は特に怒りは覚えませんでした。 「SFマガジン」という媒体と読者層を考えればべつにOKだと思うんですけど。それ から、ラヴクラフトのくだりはジャンル・マーケットの話をしているのでは? 確かに ジャンル・マーケットとしてのホラーは有って無きがごときものでしたから、ラヴクラ フトに今日のような「ホラーの人」という意識はなかったはずです。
誰かが話題にするだろうと思っていたのに誰もしないので、私が書きます。 今月の『SFマガジン』の朝松健氏のインタビューなんですが、「これはホ ラー、これはSFと垣根を作るのがナンセンスな時代になってますから」とあ るのにびっくり。13年間ホラー一筋に書き続けてきたと自負されてきた方の 結論がこれですか……。 ラヴクラフトについて、「書いてる本人は、おれはホラーだとか、おれはS F作家だとか強くは意識してなかったと思います」とはいったい何事?! 彼が ホラー・ジャンルの歴史とそこにおける自分の位置に非常に自覚的であったこ とは、「文学における超自然的恐怖」を読めば一目瞭然なはず。その完訳版を 初めて世に送り出した仕掛け人が、どうしてこんなことを? どちらも発表誌を考慮したリップ・サービスなのでしょうか。何にせよ、氏 の編集者時代のお仕事に刺激を受けてホラーの深みに引きずり込まれた身には、 あまりにつらいお言葉です。
>倉阪様 眼高手低というより、そもそも視線の方向が違うような感じですね。今日の ホラー・ジャンル内の事情に譬えたのでよけいにややこしくなったかもしれま せんが、terror派の方向性はホラーには直接の繋がりはないというのが、今の ところの私の実感です。ゴシック小説内のterror派・horror派の関係と、モダ ンホラー内の穏健派・過激派の関係は、対立の方向はパラレルですが関係自体 はイコールではない……うう、よけいややこしくなった……。 ホラー← →サスペンス モダンホラー モダンホラー 過激派 穏健派 ゴシック ゴシック horror派 terror派 こんな感じでしょうか。何だかまだすっきりしません。 『崇高と美』の曖昧さについての言及は、確かにホラーの技巧にも応用できる ものですが、ゴシック小説の時代にはラドクリフ的理解が一般的だったのかも。 本当に曖昧さが恐怖を喚起するような小説が現れたのは、ゴースト・ストーリ ーの時代になってからのような感じがしませんか? その辺の検証も含めて、まだまだ実作を読み込む必要があるようです。次は 『ケイレブ・ウィリアムズ』を読みます。
中島様 『ユドルフォー』情報、どうもありがとうございました。 「耐え難い」とか「うんざりする」とか、噂には聞いていたのですが、平井翁のような方が、 そこまで仰られたという実績(?)があるんじゃ、絶望的なのかも……。 嗚呼 ところで。ドキンちゃんは女性の鑑だと思います。(キッパリ!) 西崎様 こちらこそ、はじめまして。やはりシンクロ二シティというものは、存在するのかと、今、 実を申しますと呆然としているところです。…そのことは後で申し上げるとして。 まず、『ユドルフォー』情報。ありがとうございました。 今を去ることウン十年前、初めて『ユドルフォ』という名を眼にし、その何とも含みのあ る語感から、ずっと読んでみたいと思い続けていたものですから。 これからは、二百部限定の超豪華本(本文美濃紙モロッコ皮装丁金箔押見返し鳥の子紙墨 流し…?)を手にできる日を、夢見ていきたいと思います。 さて、先程「シンクロ二シティ」などと妙なことを口走ってしまいましたが、実は今ちょ うどコッパードの『郵便局と蛇』を読んでいた最中なのです。 その訳者でいられる西崎様とこうして、やりとりできるとは! 『郵便局と蛇』素晴らしいです。 だいたい私は気に入った本は文字通り寝食を忘れて、一気読みしてしまう性質なのですが、 この本はその正反対で、なかなか読み進むことができません。むろんつまらないからではご ざいません。全くその逆で、一篇、一篇の余韻と感動があまりにも大きすぎて、次に進めな いのです。こういう経験は初めてです。 西崎様の訳がまた、素晴らしいです。まるで、澄んだ群青色の水をたたえた湖の辺にいる ような気がいたします。 それから一般的掲示板の方でも寄席の話をいたしましたが、機会があれば幻の『ライオン』 を是非一度聴いてみたいものです。
『ユドルフォ』は、紀田順一郎氏がご執心でしたね。〈世界幻想文学大系〉の 3期予告では、予定にあがったこともあるのですが、結局幻に終ってしまいま した。それから結果的に赤字になってしまうことはあっても、最初から赤字で かまわないという出版社はありませんよ、西崎さん。
こんにちは、みなさん 酒井さん はじめまして、西崎と申します。じつは『ユドルフォの怪』の翻訳企画をどこかに持 ちこもうと考えていたのですが(自分ではやる気はありませんでしたが)、長さの問題 があって断念いたしました。訳して二千枚を越えると思われるので三分冊くらいになる かと思いますが、よほど奇特な出版社でなければ出してはくれないと思います。果たし て読者がどのくらいいるかも判りませんし。二百人くらいはいると思いますが。それに 翻訳も速い人でも一年はかかるのではないでしょうか。内容のほうは企画自体を断念し たため読んでおりませんが(文章は意外に読みやすい感じです)、オックスフォードの ペーパー版の裏表紙には病的な想像力がなす長い夢のような物語というようなことが書 かれていて、もしかしたら面白いのではないかという思いが掻きたてられます。奇特で 文語に通じていてアトモスフィアを描くに巧みな翻訳者と、少しくらいは赤字になって も構わないという出版社が現れることを私も期待しております。 西崎 拝
中島様 「曖昧さ」が恐怖に不可欠の要素とする「崇高と美」におけるバークの主張は 首肯できるところですが、当時のterror派の実作はただ隔靴掻痒でぬるいだけ ということでしょうね。眼高手低はいつの世にもありますが。 芦辺様 ご本、本日届きました。早速p190を拝見しましたが、さてどんな短篇だっ たか作者は思い出せません(笑)。